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白(しろ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-16 10:21:30  点击:  切换到繁體中文

底本: 芥川龍之介全集5
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1987(昭和62)年2月24日
入力に使用: 1995(平成7)年4月10日第6刷


底本の親本: 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月

 

   一

 ある春のひる過ぎです。しろと云う犬は土をぎ嗅ぎ、静かな往来を歩いていました。狭い往来の両側にはずっと芽をふいた生垣いけがきが続き、そのまた生垣のあいだにはちらほら桜なども咲いています。白は生垣に沿いながら、ふとある横町よこちょうへ曲りました。が、そちらへ曲ったと思うと、さもびっくりしたように、突然立ち止ってしまいました。
 それも無理はありません。その横町の七八間先には印半纏しるしばんてんを着た犬殺しが一人、わなうしろに隠したまま、一匹の黒犬をねらっているのです。しかも黒犬は何も知らずに、犬殺しの投げてくれたパンか何かを食べているのです。けれども白が驚いたのはそのせいばかりではありません。見知らぬ犬ならばともかくも、今犬殺しに狙われているのはお隣の飼犬かいいぬくろなのです。毎朝顔を合せる度におたがいの鼻のにおいを嗅ぎ合う、大の仲よしの黒なのです。
 白は思わず大声に「黒君! あぶない!」と叫ぼうとしました。が、その拍子ひょうしに犬殺しはじろりと白へ目をやりました。「教えて見ろ! 貴様から先へわなにかけるぞ。」――犬殺しの目にはありありとそう云うおどかしが浮んでいます。白は余りの恐ろしさに、思わずえるのを忘れました。いや、忘れたばかりではありません。一刻もじっとしてはいられぬほど、臆病風おくびょうかぜが立ち出したのです。白は犬殺しに目をくばりながら、じりじりあとすざりを始めました。そうしてまた生垣いけがきの蔭に犬殺しの姿が隠れるが早いか、可哀かわいそうな黒を残したまま、一目散いちもくさんに逃げ出しました。
 その途端とたんに罠が飛んだのでしょう。続けさまにけたたましい黒の鳴き声が聞えました。しかし白は引き返すどころか、足を止めるけしきもありません。ぬかるみを飛び越え、石ころを蹴散けちらし、往来どめのなわり抜け、五味ごみための箱を引っくり返し、振り向きもせずに逃げ続けました。御覧なさい。坂をけおりるのを! そら、自動車にかれそうになりました! 白はもう命の助かりたさに夢中になっているのかも知れません。いや、白の耳の底にはいまだに黒の鳴き声があぶのようにうなっているのです。
「きゃあん。きゃあん。助けてくれえ! きゃあん。きゃあん。助けてくれえ!」

        二

 白はやっとあえぎ喘ぎ、主人の家へ帰って来ました。黒塀くろべいの下の犬くぐりを抜け、物置小屋を廻りさえすれば、犬小屋のある裏庭です。白はほとんど風のように、裏庭の芝生しばふけこみました。もうここまで逃げて来れば、わなにかかる心配はありません。おまけに青あおした芝生には、幸いお嬢さんや坊ちゃんもボオル投げをして遊んでいます。それを見た白の嬉しさは何と云えばいのでしょう? 白は尻尾しっぽを振りながら、一足飛いっそくとびにそこへ飛んで行きました。
「お嬢さん! 坊ちゃん! 今日は犬殺しにいましたよ。」
 白は二人を見上げると、息もつかずにこう云いました。(もっともお嬢さんや坊ちゃんには犬の言葉はわかりませんから、わんわんと聞えるだけなのです。)しかし今日はどうしたのか、お嬢さんも坊ちゃんもただ呆気あっけにとられたように、頭さえでてはくれません。白は不思議に思いながら、もう一度二人に話しかけました。
「お嬢さん! あなたは犬殺しを御存じですか? それは恐ろしいやつですよ。坊ちゃん! わたしは助かりましたが、お隣の黒君はつかまりましたぜ。」
 それでもお嬢さんや坊ちゃんは顔を見合せているばかりです。おまけに二人はしばらくすると、こんな妙なことさえ云い出すのです。
「どこの犬でしょう? 春夫はるおさん。」
「どこの犬だろう? 姉さん。」
 どこの犬? 今度は白の方が呆気あっけにとられました。(白にはお嬢さんや坊ちゃんの言葉もちゃんと聞きわけることが出来るのです。我々は犬の言葉がわからないものですから、犬もやはり我々の言葉はわからないように考えていますが、実際はそうではありません。犬が芸を覚えるのは我々の言葉がわかるからです。しかし我々は犬の言葉を聞きわけることが出来ませんから、やみの中を見通すことだの、かすかなにおいぎ当てることだの、犬の教えてくれる芸は一つも覚えることが出来ません。)
「どこの犬とはどうしたのです? わたしですよ! 白ですよ!」
 けれどもお嬢さんは不相変あいかわらず気味悪そうに白を眺めています。
「お隣の黒の兄弟かしら?」
「黒の兄弟かも知れないね。」坊ちゃんもバットをおもちゃにしながら、考え深そうに答えました。
「こいつも体中からだじゅうまっ黒だから。」
 白は急に背中の毛が逆立さかだつように感じました。まっ黒! そんなはずはありません。白はまだ子犬の時から、牛乳ぎゅうにゅうのように白かったのですから。しかし今前足を見ると、いや、――前足ばかりではありません。胸も、腹も、後足あとあしも、すらりと上品にびた尻尾しっぽも、みんな鍋底なべそこのようにまっ黒なのです。まっ黒! まっ黒! 白は気でも違ったように、飛び上ったり、ね廻ったりしながら、一生懸命にえ立てました。
「あら、どうしましょう? 春夫さん。この犬はきっと狂犬きょうけんだわよ。」
 お嬢さんはそこに立ちすくんだなり、今にも泣きそうな声を出しました。しかし坊ちゃんは勇敢ゆうかんです。白はたちまち左の肩をぽかりとバットに打たれました。と思うと二度目のバットも頭の上へ飛んで来ます。白はその下をくぐるが早いか、元来もときた方へ逃げ出しました。けれども今度はさっきのように、一町も二町も逃げ出しはしません。芝生しばふのはずれには棕櫚しゅろの木のかげに、クリイム色にった犬小屋があります。白は犬小屋の前へ来ると、小さい主人たちを振り返りました。
「お嬢さん! 坊ちゃん! わたしはあの白なのですよ。いくらまっ黒になっていても、やっぱりあの白なのですよ。」
 白の声は何とも云われぬ悲しさと怒りとにふるえていました。けれどもお嬢さんや坊ちゃんにはそう云う白の心もちも呑みこめるはずはありません。現にお嬢さんはにくらしそうに、
「まだあすこにえているわ。ほんとうに図々ずうずうしい野良犬のらいぬね。」などと、地だんだを踏んでいるのです。坊ちゃんも、――坊ちゃんは小径こみち砂利じゃりを拾うと、力一ぱい白へ投げつけました。
畜生ちくしょう! まだ愚図愚図ぐずぐずしているな。これでもか? これでもか?」砂利は続けさまに飛んで来ました。中には白の耳のつけ根へ、血のにじむくらい当ったのもあります。白はとうとう尻尾しっぽを巻き、黒塀の外へぬけ出しました。黒塀の外には春の日の光に銀のこなを浴びた紋白蝶もんしろちょうが一羽、気楽そうにひらひら飛んでいます。
「ああ、きょうから宿無し犬になるのか?」
 白はため息をらしたまま、しばらくはただ電柱の下にぼんやり空を眺めていました。

        三

 お嬢さんや坊ちゃんにい出された白は東京中をうろうろ歩きました。しかしどこへどうしても、忘れることの出来ないのはまっ黒になった姿のことです。白は客の顔をうつしている理髪店りはつてんの鏡を恐れました。雨上あまあがりの空を映している往来おうらいの水たまりを恐れました。往来の若葉を映している飾窓かざりまど硝子ガラスを恐れました。いや、カフェのテエブルに黒ビイルをたたえているコップさえ、――けれどもそれが何になりましょう? あの自動車を御覧なさい。ええ、あの公園の外にとまった、大きい黒塗りの自動車です。うるしを光らせた自動車の車体は今こちらへ歩いて来る白の姿を映しました。――はっきりと、鏡のように。白の姿を映すものはあの客待の自動車のように、到るところにあるわけなのです。もしあれを見たとすれば、どんなに白は恐れるでしょう。それ、白の顔を御覧なさい。白は苦しそうにうなったと思うと、たちまち公園の中へけこみました。
 公園の中には鈴懸すずかけの若葉にかすかな風が渡っています。白は頭をれたなり、木々の間を歩いて行きました。ここには幸い池のほかには、姿を映すものも見当りません。物音はただ白薔薇しろばらむらがるはちの声が聞えるばかりです。白は平和な公園の空気に、しばらくはみにくい黒犬になった日ごろの悲しさも忘れていました。
 しかしそう云う幸福さえ五分と続いたかどうかわかりません。白はただ夢のように、ベンチのならんでいるみちばたへ出ました。するとその路の曲り角の向うにけたたましい犬の声が起ったのです。
「きゃん。きゃん。助けてくれえ! きゃあん。きゃあん。助けてくれえ!」
 白は思わず身震みぶるいをしました。この声は白の心の中へ、あの恐ろしい黒の最後をもう一度はっきり浮ばせたのです。白は目をつぶったまま、元来た方へ逃げ出そうとしました。けれどもそれは言葉通り、ほんの一瞬のあいだのことです。白はすさまじいうなり声をらすと、きりりとまた振り返りました。
「きゃあん。きゃあん。助けてくれえ! きゃあん。きゃあん。助けてくれえ!」
 この声はまた白の耳にはこう云う言葉にも聞えるのです。
「きゃあん。きゃあん。臆病おくびょうものになるな! きゃあん。臆病ものになるな!」
 白は頭を低めるが早いか、声のする方へけ出しました。
 けれどもそこへ来て見ると、白の目の前へ現れたのは犬殺しなどではありません。ただ学校の帰りらしい、洋服を着た子供が二三人、くびのまわりへなわをつけた茶色の子犬を引きずりながら、何かわいわいさわいでいるのです。子犬は一生懸命に引きずられまいともがきもがき、「助けてくれえ。」と繰り返していました。しかし子供たちはそんな声に耳を借すけしきもありません。ただ笑ったり、怒鳴どなったり、あるいはまた子犬の腹をくつったりするばかりです。
 白は少しもためらわずに、子供たちを目がけて吠えかかりました。不意を打たれた子供たちは驚いたの驚かないのではありません。また実際白の容子ようすは火のように燃えた眼の色と云い、刃物はもののようにむき出したきばの列と云い、今にもみつくかと思うくらい、恐ろしいけんまくを見せているのです。子供たちは四方しほうへ逃げ散りました。中には余り狼狽ろうばいしたはずみに、みちばたの花壇へ飛びこんだのもあります。白は二三間追いかけたのち、くるりと子犬を振り返ると、しかるようにこう声をかけました。
「さあ、おれと一しょに来い。お前のうちまで送ってやるから。」
 白は元来もときた木々のあいだへ、まっしぐらにまたけこみました。茶色の子犬も嬉しそうに、べンチをくぐり、薔薇ばら蹴散けちらし、白に負けまいと走って来ます。まだ頸にぶら下った、長い縄をひきずりながら。

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