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少年(しょうねん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-16 9:27:03  点击:  切换到繁體中文

底本: 芥川龍之介全集5
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1987(昭和62)年2月24日
入力に使用: 1995(平成7)年4月10日第6刷
校正に使用: 1996(平成8)年7月15日第7刷


底本の親本: 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月

 

 一 クリスマス

 昨年のクリスマスの午後、堀川保吉ほりかわやすきち須田町すだちょうかどから新橋行しんばしゆきの乗合自働車に乗った。彼の席だけはあったものの、自働車の中は不相変あいかわらず身動きさえ出来ぬ満員である。のみならず震災後の東京の道路は自働車をおどらすことも一通りではない。保吉はきょうもふだんの通り、ポケットに入れてある本を出した。が、鍛冶町かじちょうへも来ないうちにとうとう読書だけは断念した。この中でも本を読もうと云うのは奇蹟きせきを行うのと同じことである。奇蹟は彼の職業ではない。美しい円光を頂いた昔の西洋の聖者しょうじゃなるものの、――いや、彼の隣りにいるカトリック教の宣教師は目前に奇蹟を行っている。
 宣教師は何ごとも忘れたように小さい横文字の本を読みつづけている。年はもう五十を越しているのであろう、鉄縁てつぶちのパンス・ネエをかけた、鶏のように顔の赤い、短い頬鬚ほおひげのある仏蘭西フランス人である。保吉は横目を使いながら、ちょっとその本をのぞきこんだ、Essai sur les ……あとは何だか判然しない。しかし内容はともかくも、紙の黄ばんだ、活字のこまかい、とうてい新聞を読むようには読めそうもない代物しろものである。
 保吉はこの宣教師に軽い敵意を感じたまま、ぼんやり空想にふけり出した。――大勢の小天使は宣教師のまわりに読書の平安をまもっている。勿論もちろん異教徒たる乗客の中には一人も小天使の見えるものはいない。しかし五六人の小天使はつばの広い帽子の上に、逆立さかだちをしたり宙返りをしたり、いろいろの曲芸を演じている。と思うと肩の上へ目白めじろ押しに並んだ五六人も乗客の顔を見廻しながら、天国の常談じょうだんを云い合っている。おや、一人の小天使は耳の穴の中から顔を出した。そう云えば鼻柱の上にも一人、得意そうにパンス・ネエにまたがっている。……
 自働車の止まったのは大伝馬町おおでんまちょうである。同時に乗客は三四人、一度に自働車を降りはじめた。宣教師はいつか本をひざに、きょろきょろ窓の外を眺めている。すると乗客の降り終るが早いか、十一二の少女が一人、まっ先に自働車へはいって来た。褪紅色たいこうしょくの洋服に空色の帽子ぼうし阿弥陀あみだにかぶった、妙に生意気なまいきらしい少女である。少女は自働車のまん中にある真鍮しんちゅうの柱につかまったまま、両側の席を見まわした。が、生憎あいにくどちら側にもいている席は一つもない。
「お嬢さん。ここへおかけなさい。」
 宣教師は太い腰を起した。言葉はいかにも手に入った、心もち鼻へかかる日本語である。
「ありがとう。」
 少女は宣教師と入れ違いに保吉の隣りへ腰をかけた。そのまた「ありがとう」も顔のようにましゃくれた抑揚よくように富んでいる。保吉は思わず顔をしかめた。由来子供は――殊に少女は二千年ぜんの今月今日、ベツレヘムに生まれた赤児あかごのように清浄無垢しょうじょうむくのものと信じられている。しかし彼の経験によれば、子供でも悪党のないわけではない。それをことごとく神聖がるのは世界に遍満へんまんしたセンティメンタリズムである。
「お嬢さんはおいくつですか?」
 宣教師は微笑びしょうを含んだ眼に少女の顔をのぞきこんだ。少女はもう膝の上に毛糸の玉を転がしたなり、さも一かど編めるように二本の編み棒を動かしている。それが眼は油断なしに編み棒の先を追いながら、ほとんどこびを帯びた返事をした。
「あたし? あたしは来年十二。」
「きょうはどちらへいらっしゃるのですか?」
「きょう? きょうはもううちへ帰る所なの。」
 自働車はこう云う問答の間に銀座の通りを走っている。走っていると云うよりはねていると云うのかも知れない。ちょうど昔ガリラヤのみずうみにあらしを迎えたクリストの船にも伯仲はくちゅうするかと思うくらいである。宣教師はうしろへまわした手に真鍮しんちゅうの柱をつかんだまま、何度も自働車の天井へせいの高い頭をぶつけそうになった。しかし一身の安危あんきなどは上帝じょうていの意志に任せてあるのか、やはり微笑を浮かべながら、少女との問答をつづけている。
「きょうは何日なんにちだか御存知ですか?」
「十二月二十五日でしょう。」
「ええ、十二月二十五日です。十二月二十五日は何の日ですか? お嬢さん、あなたは御存知ですか?」
 保吉はもう一度顔をしかめた。宣教師は巧みにクリスト教の伝道へ移るのに違いない。コオランと共に剣をったマホメット教の伝道はまだしも剣を執った所に人間同士の尊敬なり情熱なりを示している。が、クリスト教の伝道は全然相手を尊重しない。あたかも隣りに店を出した洋服屋の存在を教えるように慇懃いんぎんに神を教えるのである。あるいはそれでも知らぬ顔をすると、今度は外国語の授業料の代りに信仰を売ることをすすめるのである。殊に少年や少女などに画本えほん玩具がんぐを与える傍ら、ひそかに彼等の魂を天国へ誘拐しようとするのは当然犯罪と呼ばれなければならぬ。保吉の隣りにいる少女も、――しかし少女は不相変あいかわらず編みものの手を動かしながら、落ち着き払った返事をした。
「ええ、それは知っているわ。」
「ではきょうは何の日ですか? 御存知ならば云って御覧なさい。」
 少女はやっと宣教師の顔へみずみずしい黒眼勝くろめがちの眼を注いだ。
「きょうはあたしのお誕生日たんじょうび。」
 保吉は思わず少女を見つめた。少女はもう大真面目おおまじめに編み棒の先へ目をやっていた。しかしその顔はどう云うものか、前に思ったほど生意気ではない。いや、むしろ可愛い中にも智慧ちえの光りの遍照へんしょうした、幼いマリアにも劣らぬ顔である。保吉はいつか彼自身の微笑しているのを発見した。
「きょうはあなたのお誕生日!」
 宣教師は突然笑い出した。この仏蘭西フランス人の笑う様子ようすはちょうど人のいお伽噺とぎばなしの中の大男か何かの笑うようである。少女は今度はけげんそうに宣教師の顔へ目を挙げた。これは少女ばかりではない。鼻の先にいる保吉を始め、両側の男女の乗客はたいてい宣教師へ目をあつめた。ただ彼等の目にあるものは疑惑でもなければ好奇心でもない。いずれも宣教師の哄笑こうしょうの意味をはっきり理解した頬笑ほほえみである。
「お嬢さん。あなたはい日にお生まれなさいましたね。きょうはこの上もないお誕生日です。世界中のお祝いするお誕生日です。あなたは今に、――あなたの大人おとなになった時にはですね、あなたはきっと……」
 宣教師は言葉につかえたまま、自働車の中を見廻した。同時に保吉と眼を合わせた。宣教師の眼はパンス・ネエの奥に笑い涙をかがやかせている。保吉はその幸福に満ちた鼠色ねずみいろの眼の中にあらゆるクリスマスの美しさを感じた。少女は――少女もやっと宣教師の笑い出した理由に気のついたのであろう、今は多少ねたようにわざと足などをぶらつかせている。
「あなたはきっとかしこい奥さんに――優しいお母さんにおなりなさるでしょう。ではお嬢さん、さようなら。わたしの降りる所へ来ましたから。では――」
 宣教師はまた前のように一同の顔を見渡した。自働車はちょうど人通りの烈しい尾張町おわりちょうの辻に止まっている。
「では皆さん、さようなら。」
 数時間ののち、保吉はやはり尾張町のあるバラックのカフェの隅にこの小事件を思い出した。あのふとった宣教師はもう電燈もともり出した今頃、何をしていることであろう? クリストと誕生日を共にした少女は夕飯ゆうはんぜんについた父や母にけさの出来事を話しているかも知れない。保吉もまた二十年ぜんには娑婆苦しゃばくを知らぬ少女のように、あるいは罪のない問答の前に娑婆苦を忘却した宣教師のように小さい幸福を所有していた。大徳院だいとくいん縁日えんにち葡萄餅ぶどうもちを買ったのもその頃である。二州楼にしゅうろうの大広間に活動写真を見たのもその頃である。
本所深川ほんじょふかがわはまだ灰の山ですな。」
「へええ、そうですかねえ。時に吉原よしわらはどうしたんでしょう?」
「吉原はどうしましたか、――浅草あさくさにはこの頃お姫様の婬売いんばいが出ると云うことですな。」
 隣りのテエブルには商人が二人、こう云う会話をつづけている。が、そんなことはどうでもい。カフェの中央のクリスマスの木は綿をかけた針葉しんようの枝に玩具おもちゃのサンタ・クロオスだの銀の星だのをぶら下げている。瓦斯煖炉ガスだんろほのおも赤あかとその木の幹を照らしているらしい。きょうはお目出たいクリスマスである。「世界中のお祝するお誕生日」である。保吉は食後の紅茶を前に、ぼんやり巻煙草まきたばこをふかしながら、大川おおかわの向うに人となった二十年ぜんの幸福を夢みつづけた。……
 この数篇の小品しょうひんは一本の巻煙草の煙となる間に、続々と保吉の心をかすめた追憶の二三を記したものである。

     二 道の上の秘密

 保吉やすきち四歳しさいの時である。彼はつると云う女中と一しょに大溝の往来へ通りかかった。黒ぐろとたたえた大溝おおどぶの向うはのち両国りょうごく停車場ていしゃばになった、名高い御竹倉おたけぐら竹藪たけやぶである。本所七不思議ほんじょななふしぎの一つに当るたぬき莫迦囃子ばかばやしと云うものはこの藪の中から聞えるらしい。少くとも保吉は誰に聞いたのか、狸の莫迦囃子の聞えるのは勿論、おいてき堀や片葉かたはよしも御竹倉にあるものと確信していた。が、今はこの気味の悪い藪も狸などはどこかへい払ったように、日の光のんだ風の中に黄ばんだ竹のをそよがせている。
「坊ちゃん、これを御存知ですか?」
 つうや(保吉は彼女をこう呼んでいた)は彼を顧みながら、人通りの少い道の上をゆびさした。土埃つちほこりの乾いた道の上にはかなり太い線が一すじ、薄うすと向うへ走っている。保吉は前にも道の上にこう云う線を見たような気がした。しかし今もその時のように何かと云うことはわからなかった。
「何でしょう? 坊ちゃん、考えて御覧なさい。」
 これはつうや常套じょうとう手段である。彼女は何を尋ねても、素直すなおに教えたと云うことはない。必ず一度は厳格げんかくに「考えて御覧なさい」を繰り返すのである。厳格に――けれどもつうやは母のように年をとっていたわけでもなんでもない。やっと十五か十六になった、小さい泣黒子なきぼくろのある小娘こむすめである。もとより彼女のこう云ったのは少しでも保吉の教育に力をえたいと思ったのであろう。彼もつうやの親切には感謝したいと思っている。が、彼女もこの言葉の意味をもっとほんとうに知っていたとすれば、きっと昔ほど執拗しつように何にでも「考えて御覧なさい」を繰り返すだけはまぬかれたであろう。保吉は爾来じらい三十年間、いろいろの問題を考えて見た。しかし何もわからないことはあの賢いつうやと一しょに大溝の往来を歩いた時と少しも変ってはいないのである。……
「ほら、こっちにももう一つあるでしょう? ねえ、坊ちゃん、考えて御覧なさい。このすじは一体何でしょう?」
 つうやは前のように道の上をゆびさした。なるほど同じくらい太い線が三尺ばかりの距離を置いたまま、土埃つちほこりの道を走っている。保吉は厳粛に考えて見たのち、とうとうその答を発明した。
「どこかの子がつけたんだろう、棒か何か持って来て?」
「それでも二本並んでいるでしょう?」
「だって二人ふたりでつけりゃ二本になるもの。」
 つうやはにやにや笑いながら、「いいえ」と云う代りに首を振った。保吉は勿論不平だった。しかし彼女は全知である。云わば Delphi の巫女みこである。道の上の秘密ひみつもとうの昔に看破かんぱしているのに違いない。保吉はだんだん不平の代りにこのふたすじの線に対する驚異の情を感じ出した。
「じゃ何さ、このすじは?」
「何でしょう? ほら、ずっと向うまで同じように二すじ並んでいるでしょう?」
 実際つうやの云う通り、一すじの線のうねっている時には、向うに横たわったもう一すじの線もちゃんと同じようにうねっている。のみならずこの二すじの線は薄白い道のつづいた向うへ、永遠そのもののように通じている。これは一体何のために誰のつけたしるしであろう? 保吉は幻燈げんとうの中にうつ蒙古もうこ大沙漠だいさばくを思い出した。二すじの線はその大沙漠にもやはり細ぼそとつづいている。………
「よう、つうや、何だって云えば?」
「まあ、考えて御覧なさい。何か二つそろっているものですから。――何でしょう、二つ揃っているものは?」
 つうやもあらゆる巫女のように漠然と暗示を与えるだけである。保吉はいよいよ熱心にはしとか手袋とか太鼓たいこの棒とか二つあるものを並べ出した。が、彼女はどの答にも容易に満足を表わさない。ただ妙に微笑したぎり、不相変あいかわらず「いいえ」を繰り返している。
「よう、教えておくれよう。ようってば。つうや莫迦ばかつうやめ!」
 保吉はとうとう癇癪かんしゃくを起した。父さえ彼の癇癪には滅多めったたたかいいどんだことはない。それはずっとりをつづけたつうやもまた重々じゅうじゅう承知しているが、彼女はやっとおごそかに道の上の秘密を説明した。
「これは車の輪のあとです。」
 これは車の輪の跡です! 保吉は呆気あっけにとられたまま、土埃つちほこりの中に断続した二すじの線を見まもった。同時に大沙漠の空想などは蜃気楼しんきろうのように消滅した。今はただ泥だらけの荷車が一台、寂しい彼の心のうちにおのずから車輪をまわしている。……
 保吉はいまだにこの時受けた、大きい教訓を服膺ふくようしている。三十年来考えて見ても、なに一つろくにわからないのはむしろ一生の幸福かも知れない。

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