三 陣中の芝居
明治三十八年五月四日の午後、阿吉牛堡に駐っていた、第×軍司令部では、午前に招魂祭を行った後、余興の演芸会を催す事になった。会場は支那の村落に多い、野天の戯台を応用した、急拵の舞台の前に、天幕を張り渡したに過ぎなかった。が、その蓆敷の会場には、もう一時の定刻前に、大勢の兵卒が集っていた。この薄汚いカアキイ服に、銃剣を下げた兵卒の群は、ほとんど看客と呼ぶのさえも、皮肉な感じを起させるほど、みじめな看客に違いなかった。が、それだけまた彼等の顔に、晴れ晴れした微笑が漂っているのは、一層可憐な気がするのだった。
将軍を始め軍司令部や、兵站監部の将校たちは、外国の従軍武官たちと、その後の小高い土地に、ずらりと椅子を並べていた。そこには参謀肩章だの、副官の襷だのが見えるだけでも、一般兵卒の看客席より、遥かに空気が花やかだった。殊に外国の従軍武官は、愚物の名の高い一人でさえも、この花やかさを扶けるためには、軍司令官以上の効果があった。
将軍は今日も上機嫌だった。何か副官の一人と話しながら、時々番付を開いて見ている、――その眼にも始終日光のように、人懐こい微笑が浮んでいた。
その内に定刻の一時になった。桜の花や日の出をとり合せた、手際の好い幕の後では、何度か鳴りの悪い拍子木が響いた。と思うとその幕は、余興掛の少尉の手に、するすると一方へ引かれて行った。
舞台は日本の室内だった。それが米屋の店だと云う事は、一隅に積まれた米俵が、わずかに暗示を与えていた。そこへ前垂掛けの米屋の主人が、「お鍋や、お鍋や」と手を打ちながら、彼自身よりも背の高い、銀杏返しの下女を呼び出して来た。それから、――筋は話すにも足りない、一場の俄が始まった。
舞台の悪ふざけが加わる度に、蓆敷の上の看客からは、何度も笑声が立ち昇った。いや、その後の将校たちも、大部分は笑を浮べていた。が、俄はその笑と競うように、ますます滑稽を重ねて行った。そうしてとうとうしまいには、越中褌一つの主人が、赤い湯もじ一つの下女と相撲をとり始める所になった。
笑声はさらに高まった。兵站監部のある大尉なぞは、この滑稽を迎えるため、ほとんど拍手さえしようとした。ちょうどその途端だった。突然烈しい叱咤の声は、湧き返っている笑の上へ、鞭を加えるように響き渡った。
「何だ、その醜態は? 幕を引け! 幕を!」
声の主は将軍だった。将軍は太い軍刀のに、手袋の両手を重ねたまま、厳然と舞台を睨んで居た。
幕引きの少尉は命令通り、呆気にとられた役者たちの前へ、倉皇とさっきの幕を引いた。同時に蓆敷の看客も、かすかなどよめきの声のほかは、ひっそりと静まり返ってしまった。
外国の従軍武官たちと、一つ席にいた穂積中佐は、この沈黙を気の毒に思った。俄は勿論彼の顔には、微笑さえも浮ばせなかった。しかし彼は看客の興味に、同情を持つだけの余裕はあった。では外国武官たちに、裸の相撲を見せても好いか?――そう云う体面を重ずるには、何年か欧洲に留学した彼は、余りに外国人を知り過ぎていた。
「どうしたのですか?」
仏蘭西の将校は驚いたように、穂積中佐をふりかえった。
「将軍が中止を命じたのです。」
「なぜ?」
「下品ですから、――将軍は下品な事は嫌いなのです。」
そう云う内にもう一度、舞台の拍子木が鳴り始めた。静まり返っていた兵卒たちは、この音に元気を取り直したのか、そこここから拍手を送り出した。穂積中佐もほっとしながら、彼の周囲を眺め廻した。周囲にい並んだ将校たちは、いずれも幾分か気兼そうに、舞台を見たり見なかったりしている、――その中にたった一人、やはり軍刀へ手をのせたまま、ちょうど幕の開き出した舞台へ、じっと眼を注いでいた。
次の幕は前と反対に、人情がかった旧劇だった。舞台にはただ屏風のほかに、火のともった行燈が置いてあった。そこに頬骨の高い年増が一人、猪首の町人と酒を飲んでいた。年増は時々金切声に、「若旦那」と相手の町人を呼んだ。そうして、――穂積中佐は舞台を見ずに、彼自身の記憶に浸り出した。柳盛座の二階の手すりには、十二三の少年が倚りかかっている。舞台には桜の釣り枝がある。火影の多い町の書割がある。その中に二銭の団洲と呼ばれた、和光の不破伴左衛門が、編笠を片手に見得をしている。少年は舞台に見入ったまま、ほとんど息さえもつこうとしない。彼にもそんな時代があった。……
「余興やめ! 幕を引かんか? 幕! 幕!」
将軍の声は爆弾のように、中佐の追憶を打ち砕いた。中佐は舞台へ眼を返した。舞台にはすでに狼狽した少尉が、幕と共に走っていた。その間にちらりと屏風の上へ、男女の帯の懸かっているのが見えた。
中佐は思わず苦笑した。「余興掛も気が利かなすぎる。男女の相撲さえ禁じている将軍が、濡れ場を黙って見ている筈がない。」――そんな事を考えながら、叱声の起った席を見ると、将軍はまだ不機嫌そうに、余興掛の一等主計と、何か問答を重ねていた。
その時ふと中佐の耳は、口の悪い亜米利加の武官が、隣に坐った仏蘭西の武官へ、こう話しかける声を捉えた。
「将軍Nも楽じゃない。軍司令官兼検閲官だから、――」
やっと三幕目が始まったのは、それから十分の後だった。今度は木がはいっても、兵卒たちは拍手を送らなかった。
「可哀そうに。監視されながら、芝居を見ているようだ。」――穂積中佐は憐むように、ほとんど大きな話声も立てない、カアキイ服の群を見渡した。
三幕目の舞台は黒幕の前に、柳の木が二三本立ててあった。それはどこから伐って来たか、生々しい実際の葉柳だった。そこに警部らしい髯だらけの男が、年の若い巡査をいじめていた。穂積中佐は番附の上へ、不審そうに眼を落した。すると番附には「ピストル強盗清水定吉、大川端捕物の場」と書いてあった。
年の若い巡査は警部が去ると、大仰に天を仰ぎながら、長々と浩歎の独白を述べた。何でもその意味は長い間、ピストル強盗をつけ廻しているが、逮捕出来ないとか云うのだった。それから人影でも認めたのか、彼は相手に見つからないため、一まず大川の水の中へ姿を隠そうと決心した。そうして後の黒幕の外へ、頭からさきに這いこんでしまった。その恰好は贔屓眼に見ても、大川の水へ没するよりは、蚊帳へはいるのに適当していた。
空虚の舞台にはしばらくの間、波の音を思わせるらしい、大太鼓の音がするだけだった。と、たちまち一方から、盲人が一人歩いて来た。盲人は杖をつき立てながら、そのまま向うへはいろうとする、――その途端に黒幕の外から、さっきの巡査が飛び出して来た。「ピストル強盗、清水定吉、御用だ!」――彼はそう叫ぶが早いか、いきなり盲人へ躍りかかった。盲人は咄嗟に身構えをした。と思うと眼がぱっちりあいた。「憾むらくは眼が小さ過ぎる。」――中佐は微笑を浮べながら、内心大人気ない批評を下した。
舞台では立ち廻りが始まっていた。ピストル強盗は渾名通り、ちゃんとピストルを用意していた。二発、三発、――ピストルは続けさまに火を吐いた。しかし巡査は勇敢に、とうとう偽目くらに縄をかけた。兵卒たちはさすがにどよめいた。が、彼等の間からは、やはり声一つかからなかった。
中佐は将軍へ眼をやった。将軍は今度も熱心に、じっと舞台を眺めていた。しかしその顔は以前よりも、遥かに柔しみを湛えていた。
そこへ舞台には一方から、署長とその部下とが駈けつけて来た。が、偽目くらと挌闘中、ピストルの弾丸に中った巡査は、もう昏々と倒れていた。署長はすぐに活を入れた。その間に部下はいち早く、ピストル強盗の縄尻を捉えた。その後は署長と巡査との、旧劇めいた愁歎場になった。署長は昔の名奉行のように、何か云い遺す事はないかと云う。巡査は故郷に母がある、と云う。署長はまた母の事は心配するな。何かそのほかにも末期の際に、心遺りはないかと云う。巡査は何も云う事はない、ピストル強盗を捉えたのは、この上もない満足だと云う。
――その時ひっそりした場内に、三度将軍の声が響いた。が、今度は叱声の代りに、深い感激の嘆声だった。
「偉い奴じゃ。それでこそ日本男児じゃ。」
穂積中佐はもう一度、そっと将軍へ眼を注いだ。すると日に焼けた将軍の頬には、涙の痕が光っていた。「将軍は善人だ。」――中佐は軽い侮蔑の中に、明るい好意をも感じ出した。
その時幕は悠々と、盛んな喝采を浴びながら、舞台の前に引かれて行った。穂積中佐はその機会に、ひとり椅子から立ち上ると、会場の外へ歩み去った。
三十分の後、中佐は紙巻を啣えながら、やはり同参謀の中村少佐と、村はずれの空地を歩いていた。
「第×師団の余興は大成功だね。N閣下は非常に喜んでいられた。」
中村少佐はこう云う間も、カイゼル髭の端をひねっていた。
「第×師団の余興? ああ、あのピストル強盗か?」
「ピストル強盗ばかりじゃない。閣下はあれから余興掛を呼んで、もう一幕臨時にやれと云われた。今度は赤垣源蔵だったがね。何と云うのかな、あれは? 徳利の別れか?」
穂積中佐は微笑した眼に、広い野原を眺めまわした。もう高粱の青んだ土には、かすかに陽炎が動いていた。
「それもまた大成功さ。――」
中村少佐は話し続けた。
「閣下は今夜も七時から、第×師団の余興掛に、寄席的な事をやらせるそうだぜ。」
「寄席的? 落語でもやらせるのかね?」
「何、講談だそうだ。水戸黄門諸国めぐり――」
穂積中佐は苦笑した。が、相手は無頓着に、元気のよい口調を続けて行った。
「閣下は水戸黄門が好きなのだそうだ。わしは人臣としては、水戸黄門と加藤清正とに、最も敬意を払っている。――そんな事を云っていられた。」
穂積中佐は返事をせずに、頭の上の空を見上げた。空には柳の枝の間に、細い雲母雲が吹かれていた。中佐はほっと息を吐いた。
「春だね、いくら満洲でも。」
「内地はもう袷を着ているだろう。」
中村少佐は東京を思った。料理の上手な細君を思った。小学校へ行っている子供を思った。そうして――かすかに憂鬱になった。
「向うに杏が咲いている。」
穂積中佐は嬉しそうに、遠い土塀に簇った、赤い花の塊りを指した。Ecoute-moi, Madeline………――中佐の心にはいつのまにか、ユウゴオの歌が浮んでいた。
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