二 間牒
明治三十八年三月五日の午前、当時全勝集に駐屯していた、A騎兵旅団の参謀は、薄暗い司令部の一室に、二人の支那人を取り調べて居た。彼等は間牒の嫌疑のため、臨時この旅団に加わっていた、第×聯隊の歩哨の一人に、今し方捉えられて来たのだった。
この棟の低い支那家の中には、勿論今日も坎の火っ気が、快い温みを漂わせていた。が、物悲しい戦争の空気は、敷瓦に触れる拍車の音にも、卓の上に脱いだ外套の色にも、至る所に窺われるのであった。殊に紅唐紙の聯を貼った、埃臭い白壁の上に、束髪に結った芸者の写真が、ちゃんと鋲で止めてあるのは、滑稽でもあれば悲惨でもあった。
そこには旅団参謀のほかにも、副官が一人、通訳が一人、二人の支那人を囲んでいた。支那人は通訳の質問通り、何でも明瞭に返事をした。のみならずやや年嵩らしい、顔に短い髯のある男は、通訳がまだ尋ねない事さえ、進んで説明する風があった。が、その答弁は参謀の心に、明瞭ならば明瞭なだけ、一層彼等を間牒にしたい、反感に似たものを与えるらしかった。
「おい歩兵!」
旅団参謀は鼻声に、この支那人を捉えて来た、戸口にいる歩哨を喚びかけた。歩兵、――それは白襷隊に加わっていた、田口一等卒にほかならなかった。――彼は戸の卍字格子を後に、芸者の写真へ目をやっていたが、参謀の声に驚かされると、思い切り大きい答をした。
「はい。」
「お前だな、こいつらを掴まえたのは? 掴まえた時どんなだったか?」
人の好い田口一等卒は、朗読的にしゃべり出した。
「私が歩哨に立っていたのは、この村の土塀の北端、奉天に通ずる街道であります。その支那人は二人とも、奉天の方向から歩いて来ました。すると木の上の中隊長が、――」
「何、木の上の中隊長?」
参謀はちょいと目蓋を挙げた。
「はい。中隊長は展望のため、木の上に登っていられたのであります。――その中隊長が木の上から、掴まえろと私に命令されました。」
「ところが私が捉えようとすると、そちらの男が、――はい。その髯のない男であります。その男が急に逃げようとしました。……」
「それだけか?」
「はい。それだけであります。」
「よし。」
旅団参謀は血肥りの顔に、多少の失望を浮べたまま、通訳に質問の意を伝えた。通訳は退屈を露さないため、わざと声に力を入れた。
「間牒でなければ何故逃げたか?」
「それは逃げるのが当然です。何しろいきなり日本兵が、躍りかかってきたのですから。」
もう一人の支那人、――鴉片の中毒に罹っているらしい、鉛色の皮膚をした男は、少しも怯まずに返答した。
「しかしお前たちが通って来たのは、今にも戦場になる街道じゃないか? 良民ならば用もないのに、――」
支那語の出来る副官は、血色の悪い支那人の顔へ、ちらりと意地の悪い眼を送った。
「いや、用はあるのです。今も申し上げた通り、私たちは新民屯へ、紙幣を取り換えに出かけて来たのです。御覧下さい。ここに紙幣もあります。」
髯のある男は平然と、将校たちの顔を眺め廻した。参謀はちょいと鼻を鳴らした。彼は副官のたじろいだのが、内心好い気味に思われたのだ。……
「紙幣を取り換える? 命がけでか?」
副官は負惜みの冷笑を洩らした。
「とにかく裸にして見よう。」
参謀の言葉が通訳されると、彼等はやはり悪びれずに、早速赤裸になって見せた。
「まだ腹巻をしているじゃないか? それをこっちへとって見せろ。」
通訳が腹巻を受けとる時、その白木綿に体温のあるのが、何だか不潔に感じられた。腹巻の中には三寸ばかりの、太い針がはいっていた。旅団参謀は窓明りに、何度もその針を検べて見た。が、それも平たい頭に、梅花の模様がついているほか、何も変った所はなかった。
「何か、これは?」
「私は鍼医です。」
髯のある男はためらわずに、悠然と参謀の問に答えた。
「次手に靴も脱いで見ろ。」
彼等はほとんど無表情に、隠すべき所も隠そうとせず、検査の結果を眺めていた。が、ズボンや上着は勿論、靴や靴下を検べて見ても、証拠になる品は見当らなかった。この上は靴を壊して見るよりほかはない。――そう思った副官は、参謀にその旨を話そうとした。
その時突然次の部屋から、軍司令官を先頭に、軍司令部の幕僚や、旅団長などがはいって来た。将軍は副官や軍参謀と、ちょうど何かの打ち合せのため、旅団長を尋ねて来ていたのだった。
「露探か?」
将軍はこう尋ねたまま、支那人の前に足を止めた。そうして彼等の裸姿へ、じっと鋭い眼を注いだ。後にある亜米利加人が、この有名な将軍の眼には、Monomania じみた所があると、無遠慮な批評を下した事がある。――そのモノメニアックな眼の色が、殊にこう云う場合には、気味の悪い輝きを加えるのだった。
旅団参謀は将軍に、ざっと事件の顛末を話した。が、将軍は思い出したように、時々頷いて見せるばかりだった。
「この上はもうぶん擲ってでも、白状させるほかはないのですが、――」
参謀がこう云いかけた時、将軍は地図を持った手に、床の上にある支那靴を指した。
「あの靴を壊して見給え。」
靴は見る見る底をまくられた。するとそこに縫いこまれた、四五枚の地図と秘密書類が、たちまちばらばらと床の上に落ちた。二人の支那人はそれを見ると、さすがに顔の色を失ってしまった。が、やはり押し黙ったまま、剛情に敷瓦を見つめていた。
「そんな事だろうと思っていた。」
将軍は旅団長を顧みながら、得意そうに微笑を洩した。
「しかし靴とはまた考えたものですね。――おい、もうその連中には着物を着せてやれ。――こんな間牒は始めてです。」
「軍司令官閣下の烱眼には驚きました。」
旅団副官は旅団長へ、間牒の証拠品を渡しながら、愛嬌の好い笑顔を見せた。――あたかも靴に目をつけたのは、将軍よりも彼自身が、先だった事も忘れたように。
「だが裸にしてもないとすれば、靴よりほかに隠せないじゃないか?」
将軍はまだ上機嫌だった。
「わしはすぐに靴と睨んだ。」
「どうもこの辺の住民はいけません。我々がここへ来た時も、日の丸の旗を出したのですが、その癖家の中を検べて見れば、大抵露西亜の旗を持っているのです。」
旅団長も何か浮き浮きしていた。
「つまり奸佞邪智なのじゃね。」
「そうです。煮ても焼いても食えないのです。」
こんな会話が続いている内、旅団参謀はまだ通訳と、二人の支那人を検べていた。それが急に田口一等卒へ、機嫌の悪い顔を向けると、吐き出すようにこう命じた。
「おい歩兵! この間牒はお前が掴まえて来たのだから、次手にお前が殺して来い。」
二十分の後、村の南端の路ばたには、この二人の支那人が、互に辮髪を結ばれたまま、枯柳の根がたに坐っていた。
田口一等卒は銃剣をつけると、まず辮髪を解き放した。それから銃を構えたまま、年下の男の後に立った。が、彼等を突殺す前に、殺すと云う事だけは告げたいと思った。
「、――」
彼はそう云って見たが、「殺す」と云う支那語を知らなかった。
「、殺すぞ!」
二人の支那人は云い合せたように、じろりと彼を振り返った。しかし驚いたけはいも見せず、それぎり別々の方角へ、何度も叩頭を続け出した。「故郷へ別れを告げているのだ。」――田口一等卒は身構えながら、こうその叩頭を解釈した。
叩頭が一通り済んでしまうと、彼等は覚悟をきめたように、冷然と首をさし伸した。田口一等卒は銃をかざした。が、神妙な彼等を見ると、どうしても銃剣が突き刺せなかった。
「、殺すぞ!」
彼はやむを得ず繰返した。するとそこへ村の方から、馬に跨った騎兵が一人、蹄に砂埃を巻き揚げて来た。
「歩兵!」
騎兵は――近づいたのを見れば曹長だった。それが二人の支那人を見ると、馬の歩みを緩めながら、傲然と彼に声をかけた。
「露探か? 露探だろう。おれにも、一人斬らせてくれ。」
田口一等卒は苦笑した。
「何、二人とも上げます。」
「そうか? それは気前が好いな。」
騎兵は身軽に馬を下りた。そうして支那人の後にまわると、腰の日本刀を抜き放した。その時また村の方から、勇しい馬蹄の響と共に、三人の将校が近づいて来た。騎兵はそれに頓着せず、まっ向に刀を振り上げた。が、まだその刀を下さない内に、三人の将校は悠々と、彼等の側へ通りかかった。軍司令官! 騎兵は田口一等卒と一しょに、馬上の将軍を見上げながら、正しい挙手の礼をした。
「露探だな。」
将軍の眼には一瞬間、モノメニアの光が輝いた。
「斬れ! 斬れ!」
騎兵は言下に刀をかざすと、一打に若い支那人を斬った。支那人の頭は躍るように、枯柳の根もとに転げ落ちた。血は見る見る黄ばんだ土に、大きい斑点を拡げ出した。
「よし。見事だ。」
将軍は愉快そうに頷きながら、それなり馬を歩ませて行った。
騎兵は将軍を見送ると、血に染んだ刀を提げたまま、もう一人の支那人の後に立った。その態度は将軍以上に、殺戮を喜ぶ気色があった。「この×××らばおれにも殺せる。」――田口一等卒はそう思いながら、枯柳の根もとに腰を下した。騎兵はまた刀を振り上げた。が、髯のある支那人は、黙然と首を伸ばしたぎり、睫毛一つ動かさなかった。……
将軍に従った軍参謀の一人、――穂積中佐は鞍の上に、春寒の曠野を眺めて行った。が、遠い枯木立や、路ばたに倒れた石敢当も、中佐の眼には映らなかった。それは彼の頭には、一時愛読したスタンダアルの言葉が、絶えず漂って来るからだった。
「私は勲章に埋った人間を見ると、あれだけの勲章を手に入れるには、どのくらい××な事ばかりしたか、それが気になって仕方がない。……」
――ふと気がつけば彼の馬は、ずっと将軍に遅れていた。中佐は軽い身震をすると、すぐに馬を急がせ出した。ちょうど当り出した薄日の光に、飾緒の金をきらめかせながら。
上一页 [1] [2] [3] [4] 下一页 尾页