芥川龍之介全集4 |
ちくま文庫、筑摩書房 |
1987(昭和62)年1月27日 |
1996(平成8)年7月15日第8刷 |
1996(平成8)年7月15日第8刷 |
筑摩全集類聚版芥川龍之介全集 |
筑摩書房 |
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月 |
一 白襷隊
明治三十七年十一月二十六日の未明だった。第×師団第×聯隊の白襷隊は、松樹山の補備砲台を奪取するために、九十三高地の北麓を出発した。
路は山陰に沿うていたから、隊形も今日は特別に、四列側面の行進だった。その草もない薄闇の路に、銃身を並べた一隊の兵が、白襷ばかり仄かせながら、静かに靴を鳴らして行くのは、悲壮な光景に違いなかった。現に指揮官のM大尉なぞは、この隊の先頭に立った時から、別人のように口数の少い、沈んだ顔色をしているのだった。が、兵は皆思いのほか、平生の元気を失わなかった。それは一つには日本魂の力、二つには酒の力だった。
しばらく行進を続けた後、隊は石の多い山陰から、風当りの強い河原へ出た。
「おい、後を見ろ。」
紙屋だったと云う田口一等卒は、同じ中隊から選抜された、これは大工だったと云う、堀尾一等卒に話しかけた。
「みんなこっちへ敬礼しているぜ。」
堀尾一等卒は振り返った。なるほどそう云われて見ると、黒々と盛り上った高地の上には、聯隊長始め何人かの将校たちが、やや赤らんだ空を後に、この死地に向う一隊の士卒へ、最後の敬礼を送っていた。
「どうだい? 大したものじゃないか? 白襷隊になるのも名誉だな。」
「何が名誉だ?」
堀尾一等卒は苦々しそうに、肩の上の銃を揺り上げた。
「こちとらはみんな死に行くのだぜ。して見ればあれは××××××××××××××そうって云うのだ。こんな安上りな事はなかろうじゃねえか?」
「それはいけない。そんな事を云っては×××すまない。」
「べらぼうめ! すむもすまねえもあるものか! 酒保の酒を一合買うのでも、敬礼だけでは売りはしめえ。」
田口一等卒は口を噤んだ。それは酒気さえ帯びていれば、皮肉な事ばかり並べたがる、相手の癖に慣れているからだった。しかし堀尾一等卒は、執拗にまだ話し続けた。
「それは敬礼で買うとは云わねえ。やれ×××××とか、やれ×××××だとか、いろんな勿体をつけやがるだろう。だがそんな事は嘘っ八だ。なあ、兄弟。そうじゃねえか?」
堀尾一等卒にこう云われたのは、これも同じ中隊にいた、小学校の教師だったと云う、おとなしい江木上等兵だった。が、そのおとなしい上等兵が、この時だけはどう云う訣か、急に噛みつきそうな権幕を見せた。そうして酒臭い相手の顔へ、悪辣な返答を抛りつけた。
「莫迦野郎! おれたちは死ぬのが役目じゃないか?」
その時もう白襷隊は、河原の向うへ上っていた。そこには泥を塗り固めた、支那人の民家が七八軒、ひっそりと暁を迎えている、――その家々の屋根の上には、石油色に襞をなぞった、寒い茶褐色の松樹山が、目の前に迫って見えるのだった。隊はこの村を離れると、四列側面の隊形を解いた。のみならずいずれも武装したまま、幾条かの交通路に腹這いながら、じりじり敵前へ向う事になった。
勿論江木上等兵も、その中に四つ這いを続けて行った。「酒保の酒を一合買うのでも、敬礼だけでは売りはしめえ。」――そう云う堀尾一等卒の言葉は、同時にまた彼の腹の底だった。しかし口数の少い彼は、じっとその考えを持ちこたえていた。それだけに、一層戦友の言葉は、ちょうど傷痕にでも触れられたような、腹立たしい悲しみを与えたのだった。彼は凍えついた交通路を、獣のように這い続けながら、戦争と云う事を考えたり、死と云う事を考えたりした。が、そう云う考えからは、寸毫の光明も得られなかった。死は×××××にしても、所詮は呪うべき怪物だった。戦争は、――彼はほとんど戦争は、罪悪と云う気さえしなかった。罪悪は戦争に比べると、個人の情熱に根ざしているだけ、×××××××出来る点があった。しかし×××××××××××××ほかならなかった。しかも彼は、――いや、彼ばかりでもない。各師団から選抜された、二千人余りの白襷隊は、その大なる×××にも、厭でも死ななければならないのだった。……
「来た。来た。お前はどこの聯隊だ?」
江木上等兵はあたりを見た。隊はいつか松樹山の麓の、集合地へ着いているのだった。そこにはもうカアキイ服に、古めかしい襷をあやどった、各師団の兵が集まっている、――彼に声をかけたのも、そう云う連中の一人だった。その兵は石に腰をかけながら、うっすり流れ出した朝日の光に、片頬の面皰をつぶしていた。
「第×聯隊だ。」
「パン聯隊だな。」
江木上等兵は暗い顔をしたまま、何ともその冗談に答えなかった。
何時間かの後、この歩兵陣地の上には、もう彼我の砲弾が、凄まじい唸りを飛ばせていた。目の前に聳えた松樹山の山腹にも、李家屯の我海軍砲は、幾たびか黄色い土煙を揚げた。その土煙の舞い上る合間に、薄紫の光が迸るのも、昼だけに、一層悲壮だった。しかし二千人の白襷隊は、こう云う砲撃の中に機を待ちながら、やはり平生の元気を失わなかった。また恐怖に挫がれないためには、出来るだけ陽気に振舞うほか、仕様のない事も事実だった。
「べらぼうに撃ちやがるな。」
堀尾一等卒は空を見上げた。その拍子に長い叫び声が、もう一度頭上の空気を裂いた。彼は思わず首を縮めながら、砂埃の立つのを避けるためか、手巾に鼻を掩っていた、田口一等卒に声をかけた。
「今のは二十八珊だぜ。」
田口一等卒は笑って見せた。そうして相手が気のつかないように、そっとポケットへ手巾をおさめた。それは彼が出征する時、馴染の芸者に貰って来た、縁に繍のある手巾だった。
「音が違うな、二十八珊は。――」
田口一等卒はこう云うと、狼狽したように姿勢を正した。同時に大勢の兵たちも、声のない号令でもかかったように、次から次へと立ち直り始めた。それはこの時彼等の間へ、軍司令官のN将軍が、何人かの幕僚を従えながら、厳然と歩いて来たからだった。
「こら、騒いではいかん。騒ぐではない。」
将軍は陣地を見渡しながら、やや錆のある声を伝えた。
「こう云う狭隘な所だから、敬礼も何もせなくとも好い。お前達は何聯隊の白襷隊じゃ?」
田口一等卒は将軍の眼が、彼の顔へじっと注がれるのを感じた。その眼はほとんど処女のように、彼をはにかませるのに足るものだった。
「はい。歩兵第×聯隊であります。」
「そうか。大元気にやってくれ。」
将軍は彼の手を握った。それから堀尾一等卒へ、じろりとその眼を転ずると、やはり右手をさし伸べながら、もう一度同じ事を繰返した。
「お前も大元気にやってくれ。」
こう云われた堀尾一等卒は、全身の筋肉が硬化したように、直立不動の姿勢になった。幅の広い肩、大きな手、頬骨の高い赭ら顔。――そう云う彼の特色は、少くともこの老将軍には、帝国軍人の模範らしい、好印象を与えた容子だった。将軍はそこに立ち止まったまま、熱心になお話し続けた。
「今打っている砲台があるな。今夜お前たちはあの砲台を、こっちの物にしてしまうのじゃ。そうすると予備隊は、お前たちの行った跡から、あの界隈の砲台をみんな手に入れてしまうのじゃ。何でも一遍にあの砲台へ、飛びつく心にならなければいかん。――」
そう云う内に将軍の声には、いつか多少戯曲的な、感激の調子がはいって来た。
「好いか? 決して途中に立ち止まって、射撃なぞをするじゃないぞ。五尺の体を砲弾だと思って、いきなりあれへ飛びこむのじゃ、頼んだぞ。どうか、しっかりやってくれ。」
将軍は「しっかり」の意味を伝えるように、堀尾一等卒の手を握った。そうしてそこを通り過ぎた。
「嬉しくもねえな。――」
堀尾一等卒は狡猾そうに、将軍の跡を見送りながら、田口一等卒へ目交せをした。
「え、おい。あんな爺さんに手を握られたのじゃ。」
田口一等卒は苦笑した。それを見るとどう云う訣か、堀尾一等卒の心の中には、何かに済まない気が起った。と同時に相手の苦笑が、面憎いような心もちにもなった。そこへ江木上等兵が、突然横合いから声をかけた。
「どうだい、握手で××××のは?」
「いけねえ。いけねえ。人真似をしちゃ。」
今度は堀尾一等卒が、苦笑せずにはいられなかった。
「××れると思うから腹が立つのだ。おれは捨ててやると思っている。」
江木上等兵がこう云うと、田口一等卒も口を出した。
「そうだ。みんな御国のために捨てる命だ。」
「おれは何のためだか知らないが、ただ捨ててやるつもりなのだ。×××××××でも向けられて見ろ。何でも持って行けと云う気になるだろう。」
江木上等兵の眉の間には、薄暗い興奮が動いていた。
「ちょうどあんな心もちだ。強盗は金さえ巻き上げれば、×××××××云いはしまい。が、おれたちはどっち道死ぬのだ。×××××××××××××××××××××たのだ。どうせ死なずにすまないのなら、綺麗に×××やった方が好いじゃないか?」
こう云う言葉を聞いている内に、まだ酒気が消えていない、堀尾一等卒の眼の中には、この温厚な戦友に対する、侮蔑の光が加わって来た。「何だ、命を捨てるくらい?」――彼は内心そう思いながら、うっとり空へ眼をあげた。そうして今夜は人後に落ちず、将軍の握手に報いるため、肉弾になろうと決心した。……
その夜の八時何分か過ぎ、手擲弾に中った江木上等兵は、全身黒焦になったまま、松樹山の山腹に倒れていた。そこへ白襷の兵が一人、何か切れ切れに叫びながら、鉄条網の中を走って来た。彼は戦友の屍骸を見ると、その胸に片足かけるが早いか、突然大声に笑い出した。大声に、――実際その哄笑の声は、烈しい敵味方の銃火の中に、気味の悪い反響を喚び起した。
「万歳! 日本万歳! 悪魔降伏。怨敵退散。第×聯隊万歳! 万歳! 万々歳!」
彼は片手に銃を振り振り、彼の目の前に闇を破った、手擲弾の爆発にも頓着せず、続けざまにこう絶叫していた。その光に透かして見れば、これは頭部銃創のために、突撃の最中発狂したらしい、堀尾一等卒その人だった。
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