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俊寛(しゅんかん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-16 9:24:17  点击:  切换到繁體中文

底本: 芥川龍之介全集4
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1987(昭和62)年1月27日
入力に使用: 1993(平成5)年12月25日第6刷
校正に使用: 1996(平成8)年7月15日第8刷


底本の親本: 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月

 

俊寛しゅんかん云いけるは……神明しんめいほかになし。ただ我等が一念なり。……唯仏法を修行しゅぎょうして、今度こんど生死しょうしを出で給うべし。源平盛衰記げんぺいせいすいき
(俊寛)いとど思いの深くなれば、かくぞ思いつづけける。「見せばやな我を思わぬ友もがな磯のとまやのしばいおりを。」同上

        一

 俊寛様の話ですか? 俊寛様の話くらい、世間に間違って伝えられた事は、まずほかにはありますまい。いや、俊寛様の話ばかりではありません。このわたし、――有王ありおう自身の事さえ、とんでもない嘘が伝わっているのです。現についこの間も、ある琵琶法師びわほうしが語ったのを聞けば、俊寛様は御歎きの余り、岩に頭を打ちつけて、くるじにをなすってしまうし、わたしはその御死骸おなきがらを肩に、身を投げて死んでしまったなどと、云っているではありませんか? またもう一人の琵琶法師は、俊寛様はあの島の女と、夫婦のかたらいをなすった上、子供も大勢御出来になり、都にいらしった時よりも、楽しい生涯しょうがいを御送りになったとか、まことしやかに語っていました。前の琵琶法師の語った事が、跡方あとかたもない嘘だと云う事は、この有王が生きているのでも、おわかりになるかと思いますが、後の琵琶法師の語った事も、やはりい加減の出たらめなのです。
 一体琵琶法師などと云うものは、どれもこれもわれがおに、嘘ばかりついているものなのです。が、その嘘のうまい事は、わたしでもめずにはいられません。わたしはあの笹葺ささぶきの小屋に、俊寛様が子供たちと、御戯おたわむれになる所を聞けば、思わず微笑を浮べましたし、またあの浪音の高い月夜に、狂い死をなさる所を聞けば、つい涙さえ落しました。たとい嘘とは云うものの、ああ云う琵琶法師びわほうしの語った嘘は、きっと琥珀こはくの中の虫のように、末代までも伝わるでしょう。して見ればそう云う嘘があるだけ、わたしでも今の内ありのままに、俊寛様の事を御話しないと、琵琶法師の嘘はいつのまにか、ほんとうに変ってしまうかも知れない――と、こうあなたはおっしゃるのですか? なるほどそれもごもっともです。ではちょうど夜長を幸い、わたしがはるばる鬼界きかいしまへ、俊寛様を御尋ね申した、その時の事を御話しましょう。しかしわたしは琵琶法師のように、上手にはとても話されません。ただわたしの話の取りは、この有王がのあたりに見た、飾りのない真実と云う事だけです。ではどうかしばらくのあいだ、御退屈でも御聞き下さい。

        二

 わたしが鬼界が島に渡ったのは、治承じしょう三年五月の末、ある曇ったひる過ぎです。これは琵琶法師も語る事ですが、その日もかれこれ暮れかけた時分、わたしはやっと俊寛しゅんかん様に、めぐりう事が出来ました。しかもその場所は人気ひとけのない海べ、――ただ灰色のなみばかりが、砂の上に寄せては倒れる、いかにも寂しい海べだったのです。
 俊寛様のその時の御姿は、――そうです。世間に伝わっているのは、「わらわかとすれば年老いてそのかおにあらず、法師かと思えばまた髪はそらざまにあがりて白髪はくはつ多し。よろずのちり藻屑もくずのつきたれども打ち払わず。くび細くして腹大きにれ、色黒うして足手細し。人にして人に非ず。」と云うのですが、これも大抵たいていは作り事です。殊にくびが細かったの、腹がれていたのと云うのは、地獄変じごくへんからでも思いついたのでしょう。つまり鬼界が島と云う所から、餓鬼がきの形容を使ったのです。なるほどその時の俊寛様は、髪も延びて御出おいでになれば、色も日に焼けていらっしゃいましたが、そのほかは昔に変らない、――いや、変らないどころではありません。昔よりも一層いっそう丈夫そうな、頼もしい御姿おすがただったのです。それが静かな潮風しおかぜに、法衣ころもの裾を吹かせながら、浪打際なみうちぎわを独り御出でになる、――見れば御手おてには何と云うのか、笹の枝に貫いた、小さい魚を下げていらっしゃいました。
僧都そうず御房ごぼう! よく御無事でいらっしゃいました。わたしです! 有王ありおうです!」
 わたしは思わず駈け寄りながら、嬉しまぎれにこう叫びました。
「おお、有王か!」
 俊寛様は驚いたように、わたしの顔を御覧になりました。が、もうわたしはその時には、御主人の膝をいたまま、嬉し泣きに泣いていたのです。
「よく来たな。有王! おれはもう今生こんじょうでは、お前にも会えぬと思っていた。」
 俊寛様もしばらくのあいだは、涙ぐんでいらっしゃるようでしたが、やがてわたしを御抱き起しになると、
「泣くな。泣くな。せめては今日きょう会っただけでも、仏菩薩ぶつぼさつ御慈悲ごじひと思うがい。」と、親のように慰めて下さいました。
「はい、もう泣きは致しません。御房ごぼうは、――御房の御住居おすまいは、この界隈かいわいでございますか?」
「住居か? 住居はあの山のかげじゃ。」
 俊寛様は魚を下げた御手に、間近い磯山いそやまを御指しになりました。
「住居と云っても、檜肌葺ひわだぶきではないぞ。」
「はい、それは承知して居ります。何しろこんな離れ島でございますから、――」
 わたしはそう云いかけたなり、また涙にむせびそうにしました。すると御主人は昔のように、優しい微笑を御見せになりながら、
「しかし居心いごころは悪くない住居じゃ。寝所ねどころもお前には不自由はさせぬ。では一しょに来て見るがい。」と、気軽に案内をして下さいました。
 しばらくののちわたしたちは、浪ばかり騒がしい海べから、寂しい漁村ぎょそんへはいりました。薄白い路の左右には、こずえから垂れた榕樹あこうの枝に、肉の厚い葉が光っている、――その木の間に点々と、笹葺ささぶきの屋根を並べたのが、この島の土人の家なのです。が、そう云う家の中に、赤々あかあかかまどの火が見えたり、珍らしい人影が見えたりすると、とにかく村里へ来たと云う、なつかしい気もちだけはして来ました。
 御主人は時々振り返りながら、この家にいるのは琉球人りゅうきゅうじんだとか、あのおりにはいのこが飼ってあるとか、いろいろ教えて下さいました。しかしそれよりも嬉しかったのは、烏帽子えぼしさえかぶらない土人の男女が、俊寛様の御姿を見ると、必ず頭を下げた事です。殊に一度なぞはある家の前に、とりを追っていた女の児さえ、御時宜おじぎをしたではありませんか? わたしは勿論嬉しいと同時に、不思議にも思ったものですから、何か訳のある事かと、そっと御主人にうかがって見ました。
成経なりつね様や康頼やすより様が、御話しになった所では、この島の土人もおにのように、なさけを知らぬ事かと存じましたが、――」
「なるほど、都にいるものには、そう思われるに相違あるまい。が、流人るにんとは云うものの、おれたちは皆都人みやこびとじゃ。辺土へんどの民はいつの世にも、都人と見れば頭を下げる。業平なりひら朝臣あそん実方さねかたの朝臣、――皆大同小異ではないか? ああ云う都人もおれのように、あずま陸奥みちのくくだった事は、思いのほか楽しい旅だったかも知れぬ。」
「しかし実方の朝臣などは、御隠れになったのちでさえ、都恋しさの一念から、台盤所だいばんどころすずめになったと、云い伝えてるではありませんか?」
「そう云ううわさを立てたものは、お前と同じ都人じゃ。鬼界きかいしまの土人と云えば、鬼のように思う都人じゃ。して見ればこれも当てにはならぬ。」
 その時また一人御主人に、頭を下げた女がいました。これはちょうど榕樹あこうの陰に、幼な児を抱いていたのですが、その葉にうしろさえぎられたせいか、紅染べにぞめの単衣ひとえを着た姿が、夕明りに浮んで見えたものです。すると御主人はこの女に、やさしい会釈えしゃくを返されてから、
「あれが少将のきたかたじゃぞ。」と、小声に教えて下さいました。
 わたしはさすがに驚きました。
きたかたと申しますと、――成経様はあの女と、夫婦になっていらしったのですか?」
 俊寛様は薄笑いと一しょに、ちょいとうなずいて御見せになりました。
「抱いていた児も少将のたねじゃよ。」
「なるほど、そう伺って見れば、こう云う辺土へんどにも似合わない、美しい顔をして居りました。」
「何、美しい顔をしていた? 美しい顔とはどう云う顔じゃ?」
「まあ、眼の細い、ほおのふくらんだ、鼻の余り高くない、おっとりした顔かと思いますが、――」
「それもやはり都の好みじゃ。この島ではまず眼の大きい、頬のどこかほっそりした、鼻も人よりは心もち高い、きりりした顔が尊まれる。そのために今の女なぞも、ここでは誰も美しいとは云わぬ。」
 わたしは思わず笑い出しました。
「やはり土人の悲しさには、美しいと云う事を知らないのですね。そうするとこの島の土人たちは、都の上臈じょうろうを見せてやっても、皆みにくいと笑いますかしら?」
「いや、美しいと云う事は、この島の土人も知らぬではない。ただ好みが違っているのじゃ。しかし好みと云うものも、万代不変ばんだいふへんとは請合うけあわれぬ。その証拠には御寺みてら御寺の、御仏みほとけ御姿みすがたを拝むがい。三界六道さんがいろくどうの教主、十方最勝じっぽうさいしょう光明無量こうみょうむりょう三学無碍さんがくむげ億億衆生引導おくおくしゅじょういんどう能化のうげ南無大慈大悲なむだいじだいひ釈迦牟尼如来しゃかむににょらいも、三十二そう八十種好しゅこう御姿おすがたは、時代ごとにいろいろ御変りになった。御仏みほとけでももしそうとすれば、如何いかんかこれ美人と云う事も、時代ごとにやはり違う筈じゃ。都でもこののち五百年か、あるいはまた一千年か、とにかくその好みの変る時には、この島の土人の女どころか、南蛮北狄なんばんほくてきの女のように、すさまじい顔がはやるかも知れぬ。」
「まさかそんな事もありますまい。我国ぶりはいつの世にも、我国ぶりでいる筈ですから。」
「所がその我国ぶりも、時と場合では当てにならぬ。たとえば当世の上臈じょうろうの顔は、唐朝とうちょう御仏みほとけ活写いきうつしじゃ。これは都人みやこびとの顔の好みが、唐土もろこしになずんでいる証拠しょうこではないか? すると人皇にんおう何代かののちには、碧眼へきがん胡人えびすの女の顔にも、うつつをぬかす時がないとは云われぬ。」
 わたしは自然とほほみました。御主人は以前もこう云う風に、わたしたちへ御教訓なすったのです。「変らぬのは御姿ばかりではない。御心もやはり昔のままだ。」――そう思うと何だかわたしの耳には、遠い都の鐘の声も、かよって来るような気がしました。が、御主人は榕樹あこうの陰に、ゆっくり御み足を運びながら、こんな事もまたおっしゃるのです。
「有王。おれはこの島に渡って以来、何が嬉しかったか知っているか? それはあのやかましい女房にょうぼうのやつに、毎日小言こごとを云われずとも、暮されるようになった事じゃよ。」

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