劉の方では、勿論そんな事には頓着しない。
「では、針でも使ひますかな。」
「なに、もつと造作のない事です。」
「では呪ですかな。」
「いや、呪でもありません。」
かう云ふ会話を繰返した末に、蛮僧は、簡単に、その療法を説明して聞かせた。――それによるに、唯、裸になつて、日向にぢつとしてゐさへすればよいと云ふのである。劉には、それが、甚、容易な事のやうに思はれた。その位の事で癒るなら、癒して貰ふのに越した事はない。その上、意識してはゐなかつたが、蛮僧の治療を受けると云ふ点で、好奇心も少しは動いてゐた。
そこでとうとう、劉も、こつちから頭を下げて、「では、どうか一つ、癒して頂きませう。」と云ふ事になつた。――劉が、裸で、炎天の打麦場にねころんでゐるのには、かう云ふ謂れが、あるのである。
すると蛮僧は、身動きをしてはいけないと云ふので、劉の体を細引で、ぐるぐる巻にした。それから、僮僕の一人に云ひつけて、酒を入れた素焼の瓶を一つ、劉の枕もとへ持つて来させた。当座の行きがかりで、糟邱の良友たる孫先生が、この不思議な療治に立合ふ事になつたのは云ふまでもない。
酒虫と云ふ物が、どんな物だか、それが腹の中にゐなくなると、どうなるのだか、枕もとにある酒の瓶は、何にするつもりなのだか、それを知つてゐるのは、蛮僧の外に一人もない。かう云ふと、何も知らずに、炎天へ裸で出てゐる劉は、甚、迂濶なやうに思はれるが、普通の人間が、学校の教育などをうけるのも、実は大抵、これと同じやうな事をしてゐるのである。
三
暑い。額へ汗がぢりぢりと湧いて来て、それが玉になつたかと思ふと、つうつと生暖く、眼の方へ流れて来る。生憎、細引でしばられてゐるから、手を出して拭ふ訳には、勿論行かない。そこで、首を動かして、汗の進路を変へやうとすると、その途端に、はげしく眩暈がしさうな気がしたので、残念ながら、この計画も亦、見合せる事にした。その中に、汗は遠慮なく、をぬらして、鼻の側から口許をまはりながら、頤の下まで流れて行く。気味が悪い事夥しい。
それまでは、眼を開いて、白く焦された空や、葉をたらした麻畑を、まじ/\と眺めてゐたが、汗が無暗に流れるやうになつてからは、それさへ断念しなければならなくなつた。劉は、この時、始めて、汗が眼にはいると、しみるものだと云ふ事を、知つたのである。そこで、屠所の羊の様な顔をして、神妙に眼をつぶりながら、ぢつと日に照りつけられてゐると、今度は、顔と云はず体と云はず、上になつてゐる部分の皮膚が、次第に或痛みを感じるやうになつて来た。皮膚の全面に、あらゆる方向へ動かうとする力が働いてゐるが、皮膚自身は、それに対して、毫も弾力を持つてゐない。それでどこもかしこも、ぴり/\する――とでも説明したら、よからうと思ふ痛みである。これは、汗所の苦しさではない。劉は、少し蛮僧の治療をうけたのが、忌々しくなつて来た。
しかし、これは、後になつて考へて見ると、まだ苦しくない方の部だつたのである。――そのうちに、喉が渇いて来た。劉も、曹孟徳か誰かが、前路に梅林ありと云つて、軍士の渇を医したと云ふ事は知つてゐる。が、今の場合、いくら、梅子の甘酸を念頭に浮べて見ても、喉の渇く事は、少しも前と変りがない。頤を動かして見たり、舌を噛んで見たりしたが、口の中は依然として熱を持つてゐる。それも、枕もとの素焼の瓶がなかつたら、まだ幾分でも、我慢がし易かつたのに違ひない。所が、瓶の口からは、芬々たる酒香が、間断なく、劉の鼻を襲つて来る。しかも、気のせいか、その酒香が、一分毎に、益々高くなつて来るやうな心もちさへする。劉は、せめて、瓶だけでも見ようと思つて、眼をあけた。上眼を使つて見ると、瓶の口と、応揚にふくれた胴の半分ばかりが、眼にはいる。眼にはいるのは、それだけであるが、同時に、劉の想像には、その瓶のうす暗い内部に、黄金のやうな色をした酒のなみ/\と湛へてゐる容子が、浮んで来た。思はず、ひびの出来た唇を、乾いた舌で舐めまはして見たが、唾の湧く気色は、更にない。汗さへ今では、日に干されて、前のやうには、流れなくなつてしまつた。
すると、はげしい眩暈が、つづいて、二三度起つた。頭痛はさつきから、しつきりなしにしてゐる。劉は、心の中で愈、蛮僧を怨めしく思つた。それから又何故、自分ともあるものが、あんな人間の口車に乗つて、こんな莫迦げた苦しみをするのだらうとも思つた。そのうちに、喉は、益々、渇いて来る。胸は妙にむかついて来る。もう我慢にも、ぢつとしてはゐられない。そこで劉はとう/\思切つて、枕もとの蛮僧に、療治の中止を申込むつもりで、喘ぎながら、口を開いた。――
すると、その途端である。劉は、何とも知れない塊が、少しづゝ胸から喉へ這ひ上つて来るのを感じ出した。それが或は蚯蚓のやうに、蠕動してゐるかと思ふと、或は守宮のやうに、少しづゝ居ざつてゐるやうでもある。兎に角或柔い物が、柔いなりに、むづりむづりと、食道を上へせり上つて来るのである。さうしてとうとうしまひに、それが、喉仏の下を、無理にすりぬけたと思ふと、今度はいきなり、鰌か何かのやうにぬるりと暗い所をぬけ出して、勢よく外へとんで出た。
と、その拍子に、例の素焼の瓶の方で、ぽちやりと、何か酒の中へ落ちるやうな音がした。
すると、蛮僧が、急に落ちつけてゐた尻を持ち上げて、劉の体にかゝつてゐる、細引を解きはじめた。もう、酒虫が出たから、安心しろと云ふのである。
「出ましたかな。」劉は、呻くやうにかう云つて、ふらふらする頭を起しながら、物珍しさの余り、喉の渇いたのも忘れて、裸のまま、瓶の側へ這ひよつた。それと見ると、孫先生も、白羽扇で日をよけながら、急いで、二人の方へやつて来る。さて、三人揃つて瓶の中を覗きこむと、肉の色が朱泥に似た、小さな山椒魚のやうなものが、酒の中を泳いでゐる。長さは、三寸ばかりであらう。口もあれば、眼もある。どうやら、泳ぎながら、酒を飲んでゐるらしい。劉はこれを見ると、急に胸が悪くなつた。……
四
蛮僧の治療の効は、覿面に現れた。劉大成は、その日から、ぱつたり酒が飲めなくなつたのである。今は、匂を嗅ぐのも、嫌だと云ふ。所が、不思議な事に、劉の健康が、それから、少しづつ、衰へて来た。今年で、酒虫を吐いてから、三年になるが、往年の丸丸と肥つてゐた俤は、何処にもない。色光沢の悪い皮膚が、脂じみたまま、険しい顔の骨を包んで、霜に侵された双が、纔に、顳の上に、残つてゐるばかり、一年の中に、何度、床につくか、わからない位ださうである。
しかし、それ以来、衰へたのは、劉の健康ばかりではない。劉の家産も亦とんとん拍子に傾いて、今では、三百畝を以て数へた負郭の田も、多くは人の手に渡つた。劉自身も、余儀なく、馴れない手に鋤を執つて、佗しいその日その日を送つてゐるのである。
酒虫を吐いて以来、何故、劉の健康が衰へたか。何故、家産が傾いたか――酒虫を吐いたと云ふ事と、劉のその後の零落とを、因果の関係に並べて見る以上、これは、誰にでも起りやすい疑問である。現にこの疑問は、長山に住んでゐる、あらゆる職業の人人によつて繰返され、且、それらの人人の口から、あらゆる種類の答を与へられた。今、ここに挙げる三つの答も、実はその中から、最、代表的なものを選んだのに過ぎない。
第一の答。酒虫は、劉の福であつて、劉の病ではない。偶、暗愚の蛮僧に遇つた為に、好んで、この天与の福を失ふやうな事になつたのである。
第二の答。酒虫は、劉の病であつて、劉の福ではない。何故と云へば、一飲一甕を尽すなどと云ふ事は、到底、常人の考へられない所だからである。そこで、もし酒虫を除かなかつたなら、劉は必久しからずして、死んだのに相違ない。して見ると、貧病、迭に至るのも、寧劉にとつては、幸福と云ふべきである。
第三の答。酒虫は、劉の病でもなければ、劉の福でもない。劉は、昔から酒ばかり飲んでゐた。劉の一生から酒を除けば、後には、何も残らない。して見ると、劉は即酒虫、酒虫は即劉である。だから、劉が酒虫を去つたのは自ら己を殺したのも同前である。つまり、酒が飲めなくなつた日から、劉は劉にして、劉ではない。劉自身が既になくなつてゐたとしたら、昔日の劉の健康なり家産なりが、失はれたのも、至極、当然な話であらう。
これらの答の中で、どれが、最よく、当を得てゐるか、それは自分にもわからない。自分は、唯、支那の小説家の Didacticism に倣つて、かう云ふ道徳的な判断を、この話の最後に、列挙して見たまでゝある。
――五年四月――
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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