芥川龍之介全集 第一巻 |
岩波書店 |
1995(平成7)年11月8日 |
一
近年にない暑さである。どこを見ても、泥で固めた家々の屋根瓦が、鉛のやうに鈍く日の光を反射して、その下に懸けてある燕の巣さへ、この塩梅では中にゐる雛や卵を、そのまゝ蒸殺してしまふかと思はれる。まして、畑と云ふ畑は、麻でも黍でも、皆、土いきれにぐつたりと頭をさげて、何一つ、青いなりに、萎れてゐないものはない。その畑の上に見える空も、この頃の温気に中てられたせいか、地上に近い大気は、晴れながら、どんよりと濁つて、その所々に、霰を炮烙で煎つたやうな、形ばかりの雲の峰が、つぶつぶと浮かんでゐる。――「酒虫」の話は、この陽気に、わざ/\炎天の打麦場へ出てゐる、三人の男で始まるのである。
不思議な事に、その中の一人は、素裸で、仰向けに地面へ寝ころんでゐる。おまけに、どう云ふ訳だか、細引で、手も足もぐる/\巻にされてゐる。が格別当人は、それを苦に病んでゐる容子もない。背の低い、血色の好い、どことなく鈍重と云ふ感じを起させる、豚のやうに肥つた男である。それから手ごろな素焼の瓶が一つ、この男の枕もとに置いてあるが、これも中に何がはいつてゐるのだか、わからない。
もう一人は、黄色い法衣を着て、耳に小さな青銅の環をさげた、一見、象貌の奇古な沙門である。皮膚の色が並はづれて黒い上に、髪や鬚の縮れてゐる所を見ると、どうも葱嶺の西からでも来た人間らしい。これはさつきから根気よく、朱柄の麈尾をふりふり、裸の男にたからうとする虻や蠅を追つてゐたが、流石に少しくたびれたと見えて、今では、例の素焼の瓶の側へ来て、七面鳥のやうな恰好をしながら、勿体らしくしやがんでゐる。
あとの一人は、この二人からずつと離れて、打麦場の隅にある草房の軒下に立つてゐる。この男は、頤の先に、鼠の尻尾のやうな髯を、申訳だけに生やして、踵が隠れる程長い布衫に、結目をだらしなく垂らした茶褐帯と云ふ拵へである。白い鳥の羽で製つた団扇を、時々大事さうに使つてゐる容子では、多分、儒者か何かにちがひない。
この三人が三人とも、云ひ合せたやうに、口を噤んでゐる。その上、碌に身動きさへもしない、何か、これから起らうとする事に、非常な興味でも持つてゐて、その為に、皆、息をひそめてゐるのではないかと思はれる。
日は正に、亭午であらう。犬も午睡をしてゐるせいか、吠える声一つ聞えない。打麦場を囲んでゐる麻や黍も、青い葉を日に光らせて、ひつそりかんと静まつてゐる。それから、その末に見える空も、一面に、熱くるしく、炎靄をたゞよはせて、雲の峰さへもこの旱に、肩息をついてゐるのかと、疑はれる。見渡した所、息が通つてゐるらしいのは、この三人の男の外にない。さうして、その三人が又、関帝廟に安置してある、泥塑の像のやうに沈黙を守つてゐる。……
勿論、日本の話ではない。――支那の長山と云ふ所にある劉氏の打麦場で、或年の夏、起つた出来事である。
二
裸で、炎天に寝ころんでゐるのは、この打麦場の主人で、姓は劉、名は大成と云ふ、長山では、屈指の素封家の一人である。この男の道楽は、酒を飲む一方で、朝から、殆、盃を離したと云ふ事がない。それも、「独酌する毎に輒、一甕を尽す」と云ふのだから、人並をはづれた酒量である。尤も前にも云つたやうに、「負郭の田三百畝、半は黍を種う」と云ふので、飲の為に家産が累はされるやうな惧は、万々ない。
それが、何故、裸で、炎天に寝ころんでゐるかと云ふと、それには、かう云ふ因縁がある。――その日、劉が、同じ飲仲間の孫先生と一しよに(これが、白羽扇を持つてゐた儒者である。)風通しのいゝ室で、竹婦人に靠れながら、棋局を闘はせてゐると、召使ひの鬟が来て、「唯今、宝幢寺とかにゐると云ふ、坊さんが御見えになりまして、是非、御主人に御目にかゝりたいと申しますが、いかゞ致しませう。」と云ふ。
「なに、宝幢寺?」かう云つて、劉は小さな眼を、まぶしさうに、しばたたいたが、やがて、暑さうに肥つた体を起しながら、「では、こゝへ御通し申せ。」と云ひつけた。それから、孫先生の顔をちよいと見て「大方あの坊主でせう。」とつけ加へた。
宝幢寺にゐる坊主と云ふのは、西域から来た蛮僧である。これが、医療も加へれば、房術も施すと云ふので、この界隈では、評判が高い。たとへば、張三の黒内障が、忽、快方に向つたとか、李四の病閹が、即座に平癒したとか、殆、奇蹟に近い噂が盛に行はれてゐるのである。――この噂は、二人とも聞いてゐた。その蛮僧が、今、何の用で、わざわざ、劉の所へ出むいて来たのであらう。勿論、劉の方から、迎へにやつた覚えなどは、全然ない。
序に云つて置くが、劉は、一体、来客を悦ぶやうな男ではない。が、他に一人、来客がある場合に、新来の客が来たとなると、大抵ならば、快く会つてやる。客の手前、客のあるのを自慢するとでも云つたらよささうな、小供らしい虚栄心を持つてゐるからである。それに、今日の蛮僧は、この頃、どこででも評判になつてゐる。決して、会つて恥しいやうな客ではない。――劉が会はうと云ひ出した動機は、大体こんな所にあつたのである。
「何の用でせう。」
「まづ、物貰ひですな。信施でもしてくれと云ふのでせう。」
こんな事を、二人で話してゐる内に、やがて、鬟の案内で、はいつて来たのを見ると、背の高い、紫石稜のやうな眼をした、異形な沙門である。黄色い法衣を着て、その肩に、縮れた髪の伸びたのを、うるささうに垂らしてゐる。それが、朱柄の麈尾を持つたまゝ、のつそり室のまん中に立つた。挨拶もしなければ、口もきかない。
劉は、しばらく、ためらつてゐたが、その内に、それが何となく、不安になつて来たので「何か御用かな。」と訊いて見た。
すると、蛮僧が云つた。「あなたでせうな、酒が好きなのは。」
「さやう。」劉は、あまり問が唐突なので、曖昧な返事をしながら、救を求めるやうに、孫先生の方を見た。孫先生は、すまして、独りで、盤面に石を下してゐる。まるで、取り合ふ容子はない。
「あなたは、珍しい病に罹つて御出になる。それを御存知ですかな。」蛮僧は念を押すやうに、かう云つた。劉は、病と聞いたので、けげんな顔をして、竹婦人を撫でながら、
「病――ですかな。」
「さうです。」
「いや、幼少の時から……」劉が何か云はうとすると、蛮僧はそれを遮つて、
「酒を飲まれても、酔ひますまいな。」
「……」劉は、ぢろぢろ、相手の顔を見ながら、口を噤んでしまつた。実際この男は、いくら酒を飲んでも、酔つた事がないのである。
「それが、病の証拠ですよ。」蛮僧は、うす笑をしながら、語をついで、「腹中に酒虫がゐる。それを除かないと、この病は癒りません。貧道は、あなたの病を癒しに来たのです。」
「癒りますかな。」劉は思はず覚束なさうな声を出した。さうして、自分でそれを恥ぢた。
「癒ればこそ、来ましたが。」
すると、今まで、黙つて、問答を聞いてゐた孫先生が、急に語を挟んだ。
「何か、薬でも御用ひか。」
「いや、薬なぞは用ひるまでもありません。」蛮僧は不愛想に、かう答へた。
孫先生は、元来、道仏の二教を殆、無理由に軽蔑してゐる。だから、道士とか僧侶とかと一しよになつても、口をきいた事は滅多にない。それが、今ふと口を出す気になつたのは、全く酒虫と云ふ語の興味に動かされたからで、酒の好きな先生は、これを聞くと、自分の腹の中にも、酒虫がゐはしないかと、聊、不安になつて来たのである。所が、蛮僧の不承不承な答を聞くと、急に、自分が莫迦にされたやうな気がしたので、先生はちよいと顔をしかめながら、又元の通り、黙々として棋子を下しはじめた。さうして、それと同時に、内心、こんな横柄な坊主に会つたり何ぞする主人の劉を、莫迦げてゐると思ひ出した。
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