軍事教育
軍事教育と言うものは畢竟只軍事用語の知識を与えるばかりである。その他の知識や訓練は何も特に軍事教育を待った後に得られるものではない。現に海陸軍の学校さえ、機械学、物理学、応用化学、語学等は勿論、剣道、柔道、水泳等にもそれぞれ専門家を傭っているではないか? しかも更に考えて見れば、軍事用語も学術用語と違い、大部分は通俗的用語である。すると軍事教育と言うものは事実上ないものと言わなければならぬ。事実上ないものの利害得失は勿論問題にはならぬ筈である。
勤倹尚武
「勤倹尚武」と言う成語位、無意味を極めているものはない。尚武は国際的奢侈である。現に列強は軍備の為に大金を費しているではないか? 若し「勤倹尚武」と言うことも痴人の談でないとすれば、「勤倹遊蕩」と言うこともやはり通用すると言わなければならぬ。
日本人
我我日本人の二千年来君に忠に親に孝だったと思うのは猿田彦命もコスメ・ティックをつけていたと思うのと同じことである。もうそろそろありのままの歴史的事実に徹して見ようではないか?
倭寇
倭寇は我我日本人も優に列強に伍するに足る能力のあることを示したものである。我我は盗賊、殺戮、姦淫等に於ても、決して「黄金の島」を探しに来た西班牙人、葡萄牙人、和蘭人、英吉利人等に劣らなかった。
つれづれ草
わたしは度たびこう言われている。――「つれづれ草などは定めしお好きでしょう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは未嘗愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。
徴候
恋愛の徴候の一つは彼女は過去に何人の男を愛したか、或はどう言う男を愛したかを考え、その架空の何人かに漠然とした嫉妬を感ずることである。
又
又恋愛の徴候の一つは彼女に似た顔を発見することに極度に鋭敏になることである。
恋愛と死と
恋愛の死を想わせるのは進化論的根拠を持っているのかも知れない。蜘蛛や蜂は交尾を終ると、忽ち雄は雌の為に刺し殺されてしまうのである。わたしは伊太利の旅役者の歌劇「カルメン」を演ずるのを見た時、どうもカルメンの一挙一動に蜂を感じてならなかった。
身代り
我我は彼女を愛する為に往々彼女の外の女人を彼女の身代りにするものである。こう言う羽目に陥るのは必しも彼女の我我を却けた場合に限る訣ではない。我我は時には怯懦の為に、時には又美的要求の為にこの残酷な慰安の相手に一人の女人を使い兼ねぬのである。
結婚
結婚は性慾を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。
又
彼は二十代に結婚した後、一度も恋愛[#「恋愛」は底本では「変愛」]関係に陥らなかった。何と言う俗悪さ加減!
多忙
我我を恋愛から救うものは理性よりも寧ろ多忙である。恋愛も亦完全に行われる為には何よりも時間を持たなければならぬ。ウエルテル、ロミオ、トリスタン――古来の恋人を考えて見ても、彼等は皆閑人ばかりである。
男子
男子は由来恋愛よりも仕事を尊重するものである。若しこの事実を疑うならば、バルザックの手紙を読んで見るが好い。バルザックはハンスカ伯爵夫人に「この手紙も原稿料に換算すれば、何フランを越えている」と書いている。
行儀
昔わたしの家に出入りした男まさりの女髪結は娘を一人持っていた。わたしは未だに蒼白い顔をした十二三の娘を覚えている。女髪結はこの娘に行儀を教えるのにやかましかった。殊に枕をはずすことにはその都度折檻を加えていたらしい。が、近頃ふと聞いた話によれば、娘はもう震災前に芸者になったとか言うことである。わたしはこの話を聞いた時、ちょっともの哀れに感じたものの、微笑しない訣には行かなかった。彼女は定めし芸者になっても、厳格な母親の躾け通り、枕だけははずすまいと思っているであろう。……
自由
誰も自由を求めぬものはない。が、それは外見だけである。実は誰も肚の底では少しも自由を求めていない。その証拠には人命を奪うことに少しも躊躇しない無頼漢さえ、金甌無欠の国家の為に某某を殺したと言っているではないか? しかし自由とは我我の行為に何の拘束もないことであり、即ち神だの道徳だの或は又社会的習慣だのと連帯責任を負うことを潔しとしないものである。
又
自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。
又
まことに自由を眺めることは直ちに神々の顔を見ることである。
又
自由主義、自由恋愛、自由貿易、――どの「自由」も生憎杯の中に多量の水を混じている。しかも大抵はたまり水を。
言行一致
言行一致の美名を得る為にはまず自己弁護に長じなければならぬ。
方便
一人を欺かぬ聖賢はあっても、天下を欺かぬ聖賢はない。仏家の所謂善巧方便とは畢竟精神上のマキアヴェリズムである。
芸術至上主義者
古来熱烈なる芸術至上主義者は大抵芸術上の去勢者である。丁度熱烈なる国家主義者は大抵亡国の民であるように――我我は誰でも我我自身の持っているものを欲しがるものではない。
唯物史観
若し如何なる小説家もマルクスの唯物史観に立脚した人生を写さなければならぬならば、同様に又如何なる詩人もコペルニクスの地動説に立脚した日月山川を歌わなければならぬ。が、「太陽は西に沈み」と言う代りに「地球は何度何分廻転し」と言うのは必しも常に優美ではあるまい。
支那
蛍の幼虫は蝸牛を食う時に全然蝸牛を殺してはしまわぬ。いつも新らしい肉を食う為に蝸牛を麻痺させてしまうだけである。我日本帝国を始め、列強の支那に対する態度は畢竟この蝸牛に対する蛍の態度と選ぶ所はない。
又
今日の支那の最大の悲劇は無数の国家的羅曼主義者即ち「若き支那」の為に鉄の如き訓練を与えるに足る一人のムッソリニもいないことである。
小説
本当らしい小説とは単に事件の発展に偶然性の少ないばかりではない。恐らくは人生に於けるよりも偶然性の少ない小説である。
文章
文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。
又
彼等は皆樗牛のように「文は人なり」と称している。が、いずれも内心では「人は文なり」と思っているらしい。
女の顔
女は情熱に駆られると、不思議にも少女らしい顔をするものである。尤もその情熱なるものはパラソルに対する情熱でも差支えない。
世間智
消火は放火ほど容易ではない。こう言う世間智の代表的所有者は確かに「ベル・アミ」の主人公であろう。彼は恋人をつくる時にもちゃんともう絶縁することを考えている。
又
単に世間に処するだけならば、情熱の不足などは患わずとも好い。それよりも寧ろ危険なのは明らかに冷淡さの不足である。
恒産
恒産のないものに恒心のなかったのは二千年ばかり昔のことである。今日では恒産のあるものは寧ろ恒心のないものらしい。
彼等
わたしは実は彼等夫婦の恋愛もなしに相抱いて暮らしていることに驚嘆していた。が、彼等はどう云う訣か、恋人同志の相抱いて死んでしまったことに驚嘆している。
作家所生の言葉
「振っている」「高等遊民」「露悪家」「月並み」等の言葉の文壇に行われるようになったのは夏目先生から始まっている。こう言う作家所生の言葉は夏目先生以後にもない訣ではない。久米正雄君所生の「微苦笑」「強気弱気」などはその最たるものであろう。なお又「等、等、等」と書いたりするのも宇野浩二君所生のものである。我我は常に意識して帽子を脱いでいるものではない。のみならず時には意識的には敵とし、怪物とし、犬となすものにもいつか帽子を脱いでいるものである。或作家を罵る文章の中にもその作家の作った言葉の出るのは必ずしも偶然ではないかも知れない。
幼児
我我は一体何の為に幼い子供を愛するのか? その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない為である。
又
我我の恬然と我我の愚を公にすることを恥じないのは幼い子供に対する時か、――或は、犬猫に対する時だけである。
池大雅
「大雅は余程呑気な人で、世情に疎かった事は、其室玉瀾を迎えた時に夫婦の交りを知らなかったと云うので略其人物が察せられる。」
「大雅が妻を迎えて夫婦の道を知らなかったと云う様な話も、人間離れがしていて面白いと云えば、面白いと云えるが、丸で常識のない愚かな事だと云えば、そうも云えるだろう。」
こう言う伝説を信ずる人はここに引いた文章の示すように今日もまだ芸術家や美術史家の間に残っている。大雅は玉瀾を娶った時に交合のことを行わなかったかも知れない。しかしその故に交合のことを知らずにいたと信ずるならば、――勿論その人はその人自身烈しい性欲を持っている余り、苟くもちゃんと知っている以上、行わずにすませられる筈はないと確信している為であろう。
荻生徂徠
荻生徂徠は煎り豆を噛んで古人を罵るのを快としている。わたしは彼の煎り豆を噛んだのは倹約の為と信じていたものの、彼の古人を罵ったのは何の為か一向わからなかった。しかし今日考えて見れば、それは今人を罵るよりも確かに当り障りのなかった為である。
若楓
若楓は幹に手をやっただけでも、もう梢に簇った芽を神経のように震わせている。植物と言うものの気味の悪さ!
蟇
最も美しい石竹色は確かに蟇の舌の色である。
鴉
わたしは或雪霽の薄暮、隣の屋根に止まっていた、まっ青な鴉を見たことがある。
作家
文を作るのに欠くべからざるものは何よりも創作的情熱である。その又創作的情熱を燃え立たせるのに欠くべからざるものは何よりも或程度の健康である。瑞典式体操、菜食主義、複方ジアスタアゼ等を軽んずるのは文を作らんとするものの志ではない。
又
文を作らんとするものは如何なる都会人であるにしても、その魂の奥底には野蛮人を一人持っていなければならぬ。
又
文を作らんとするものの彼自身を恥ずるのは罪悪である。彼自身を恥ずる心の上には如何なる独創の芽も生えたことはない。
又
百足 ちっとは足でも歩いて見ろ。
蝶 ふん、ちっとは羽根でも飛んで見ろ。
又
気韻は作家の後頭部である。作家自身には見えるものではない。若し又無理に見ようとすれば、頸の骨を折るのに了るだけであろう。
又
批評家 君は勤め人の生活しか書けないね?
作家 誰か何でも書けた人がいたかね?
又
あらゆる古来の天才は、我我凡人の手のとどかない壁上の釘に帽子をかけている。尤も踏み台はなかった訣ではない。
又
しかしああ言う踏み台だけはどこの古道具屋にも転がっている。
又
あらゆる作家は一面には指物師の面目を具えている。が、それは恥辱ではない。あらゆる指物師も一面には作家の面目を具えている。
又
のみならず又あらゆる作家は一面には店を開いている。何、わたしは作品は売らない? それは君、買い手のない時にはね。或は売らずとも好い時にはね。
又
俳優や歌手の幸福は彼等の作品ののこらぬことである。――と思うこともない訣ではない。
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