又 古来如何に大勢の親はこう言う言葉を繰り返したであろう。――「わたしは畢竟失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」 可能 我々はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社会も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかったであろう。 ムアアの言葉 ジョオジ・ムアアは「我死せる自己の備忘録」の中にこう言う言葉を挟んでいる。――「偉大なる画家は名前を入れる場所をちゃんと心得ているものである。又決して同じ所に二度と名前を入れぬものである。」 勿論「決して同じ所に二度と名前を入れぬこと」は如何なる画家にも不可能である。しかしこれは咎(とが)めずとも好い。わたしの意外に感じたのは「偉大なる画家は名前を入れる場所をちゃんと心得ている」と言う言葉である。東洋の画家には未(いま)だ甞(かつ)て落款(らくかん)の場所を軽視したるものはない。落款の場所に注意せよなどと言うのは陳套語(ちんとうご)である。それを特筆するムアアを思うと、坐(そぞ)ろに東西の差を感ぜざるを得ない。 大作 大作を傑作と混同するものは確かに鑑賞上の物質主義である。大作は手間賃の問題にすぎない。わたしはミケル・アンジェロの「最後の審判」の壁画よりも遥(はる)かに六十何歳かのレムブラントの自画像を愛している。 わたしの愛する作品 わたしの愛する作品は、――文芸上の作品は畢竟作家の人間を感ずることの出来る作品である。人間を――頭脳と心臓と官能とを一人前に具(そな)えた人間を。しかし不幸にも大抵の作家はどれか一つを欠いた片輪である。(尤(もっと)も時には偉大なる片輪に敬服することもない訣(わけ)ではない。) 「虹霓関」を見て 男の女を猟するのではない。女の男を猟するのである。――ショウは「人と超人と」の中にこの事実を戯曲化した。しかしこれを戯曲化したものは必しもショウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳(メイランファン)の「虹霓関(こうげいかん)」を見、支那にも既にこの事実に注目した戯曲家のあるのを知った。のみならず「戯考」は「虹霓関」の外にも、女の男を捉(とら)えるのに孫呉の兵機と剣戟(けんげき)とを用いた幾多の物語を伝えている。「董家山(とうかざん)」の女主人公金蓮、「轅門斬子(えんもんざんし)」の女主人公桂英、「双鎖山(そうさざん)」の女主人公金定等は悉(ことごとく)こう言う女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年将軍を馬上に俘(とりこ)にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言うのを無理に結婚してしまうのである。胡適(こてき)氏はわたしにこう言った。――「わたしは『四進士』を除きさえすれば、全京劇の価値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲学的である。哲学者胡適氏はこの価値の前に多少氏の雷霆(らいてい)の怒を和げる訣(わけ)には行かないであろうか? 経験 経験ばかりにたよるのは消化力を考えずに食物ばかりにたよるものである。同時に又経験を徒(いたず)らにしない能力ばかりにたよるのもやはり食物を考えずに消化力ばかりにたよるものである。 アキレス 希臘(ギリシア)の英雄アキレスは踵(かかと)だけ不死身ではなかったそうである。――即ちアキレスを知る為にはアキレスの踵を知らなければならぬ。 芸術家の幸福 最も幸福な芸術家は晩年に名声を得る芸術家である。国木田独歩もそれを思えば、必しも不幸な芸術家ではない。 好人物 女は常に好人物を夫に持ちたがるものではない。しかし男は好人物を常に友だちに持ちたがるものである。 又 好人物は何よりも先に天上の神に似たものである。第一に歓喜を語るのに好い。第二に不平を訴えるのに好い。第三に――いてもいないでも好い。 罪「その罪を憎んでその人を憎まず」とは必(かならず)しも行うに難いことではない。大抵の子は大抵の親にちゃんとこの格言を実行している。 桃李「桃李(とうり)言わざれども、下自(おのずか)ら蹊(けい)を成す」とは確かに知者の言である。尤(もっと)も「桃李言わざれども」ではない。実は「桃李言わざれば」である。 偉大 民衆は人格や事業の偉大に籠絡(ろうらく)されることを愛するものである。が、偉大に直面することは有史以来愛したことはない。 広告「侏儒(しゅじゅ)の言葉」十二月号の「佐佐木茂索君の為に」は佐佐木君を貶(けな)したのではありません。佐佐木君を認めない批評家を嘲(あざけ)ったものであります。こう言うことを広告するのは「文芸春秋」の読者の頭脳を軽蔑(けいべつ)することになるのかも知れません。しかし実際或批評家は佐佐木君を貶したものと思いこんでいたそうであります。且(かつ)又この批評家の亜流も少くないように聞き及びました。その為に一言広告します。尤もこれを公にするのはわたくしの発意ではありません。実は先輩里見(さとみとん)君の煽動(せんどう)によった結果であります。どうかこの広告に憤る読者は里見君に非難を加えて下さい。「侏儒の言葉」の作者。 追加広告 前掲の広告中、「里見君に非難を加えて下さい」と言ったのは勿論(もちろん)わたしの常談(じょうだん)であります。実際は非難を加えずともよろしい。わたしは或批評家の代表する一団の天才に敬服した余り、どうも多少ふだんよりも神経質になったようであります。同上 再追加広告 前掲の追加広告中、「或批評家の代表する一団の天才に敬服した」と言うのは勿論反語と言うものであります。同上 芸術 画力は三百年、書力は五百年、文章の力は千古無窮とは王世貞(おうせいてい)の言う所である。しかし敦煌(とんこう)の発掘品等に徴すれば、書画は五百年を閲(けみ)した後にも依然として力を保っているらしい。のみならず文章も千古無窮に力を保つかどうかは疑問である。観念も時の支配の外に超然としていることの出来るものではない。我我の祖先は「神」と言う言葉に衣冠束帯の人物を髣髴(ほうふつ)していた。しかし我我は同じ言葉に髯(ひげ)の長い西洋人を髣髴している。これはひとり神に限らず、何ごとにも起り得るものと思わなければならぬ。 又 わたしはいつか東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)の似顔画を見たことを覚えている。その画中の人物は緑いろの光琳波(こうりんは)を描いた扇面を胸に開いていた。それは全体の色彩の効果を強めているのに違いなかった。が、廓大鏡(かくだいきょう)に覗(のぞ)いて見ると、緑いろをしているのは緑青(ろくしょう)を生じた金いろだった。わたしはこの一枚の写楽に美しさを感じたのは事実である。けれどもわたしの感じたのは写楽の捉(とら)えた美しさと異っていたのも事実である。こう言う変化は文章の上にもやはり起るものと思わなければならぬ。 又 芸術も女と同じことである。最も美しく見える為には一時代の精神的雰囲気[#「雰囲気」は底本では「雰雰囲気」]或は流行に包まれなければならぬ。 又 のみならず芸術は空間的にもやはり軛(くびき)を負わされている。一国民の芸術を愛する為には一国民の生活を知らなければならぬ。東禅寺に浪士の襲撃を受けた英吉利(イギリス)の特命全権公使サア・ルサアフォオド・オルコックは我我日本人の音楽にも騒音を感ずる許(ばか)りだった。彼の「日本に於ける三年間」はこう言う一節を含んでいる。――「我我は坂を登る途中、ナイティンゲエルの声に近い鶯(うぐいす)の声を耳にした。日本人は鶯に歌を教えたと言うことである。それは若(も)しほんとうとすれば、驚くべきことに違いない。元来日本人は音楽と言うものを自ら教えることも知らないのであるから。」(第二巻第二十九章) 天才 天才とは僅(わず)かに我我と一歩を隔てたもののことである。只(ただ)この一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。 又 天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。後代は又その為に天才の前に香を焚(た)いている。 又 民衆も天才を認めることに吝(やぶさ)かであるとは信じ難い。しかしその認めかたは常に頗(すこぶ)る滑稽(こっけい)である。 又 天才の悲劇は「小ぢんまりした、居心の好い名声」を与えられることである。 又 耶蘇(やそ)「我笛吹けども、汝等(なんじら)踊らず。」 彼等「我等踊れども、汝足らわず。」 我我は如何なる場合にも、我我の利益を擁護せぬものに「清き一票」を投ずる筈(はず)はない。この「我我の利益」の代りに「天下の利益」を置き換えるのは全共和制度の(うそ)である。このだけはソヴィエットの治下にも消滅せぬものと思わなければならぬ。 又 一体になった二つの観念を採り、その接触点を吟味すれば、諸君は如何に多数のに養われているかを発見するであろう。あらゆる成語はこの故に常に一つの問題である。 又 我我の社会に合理的外観を与えるものは実はその不合理の――その余りに甚しい不合理の為ではないであろうか? レニン わたしの最も驚いたのはレニンの余りに当り前の英雄だったことである。 賭博 偶然即ち神と闘うものは常に神秘的威厳に満ちている。賭博者(とばくしゃ)も亦この例に洩(も)れない。 又 古来賭博に熱中した厭世(えんせい)主義者のないことは如何に賭博の人生に酷似しているかを示すものである。 又 法律の賭博を禁ずるのは賭博に依(よ)る富の分配法そのものを非とする為ではない。実は唯(ただ)その経済的ディレッタンティズムを非とする為である。 懐疑主義 懐疑主義も一つの信念の上に、――疑うことは疑わぬと言う信念の上に立つものである。成程それは矛盾かも知れない。しかし懐疑主義は同時に又少しも信念の上に立たぬ哲学のあることをも疑うものである。 正直 若し正直になるとすれば、我我は忽(たちま)ち何びとも正直になられぬことを見出すであろう。この故に我我は正直になることに不安を感ぜずにはいられぬのである。 虚偽 わたしは或つきを知っていた。彼女は誰よりも幸福だった。が、余りにの巧みだった為にほんとうのことを話している時さえをついているとしか思われなかった。それだけは確かに誰の目にも彼女の悲劇に違いなかった。 又 わたしも亦あらゆる芸術家のように寧(むし)ろには巧みだった。が、いつも彼女には一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)する外はなかった。彼女は実に去年のをも五分前ののように覚えていた。 又 わたしは不幸にも知っている。時にはに依る外は語られぬ真実もあることを。 諸君 諸君は青年の芸術の為に堕落することを恐れている。しかしまず安心し給え。諸君ほどは容易に堕落しない。 又 諸君は芸術の国民を毒することを恐れている。しかしまず安心し給え。少くとも諸君を毒することは絶対に芸術には不可能である。二千年来芸術の魅力を理解せぬ諸君を毒することは。 忍従 忍従はロマンティックな卑屈である。 企図 成すことは必しも困難ではない。が、欲することは常に困難である。少くとも成すに足ることを欲するのは。 又 彼等の大小を知らんとするものは彼等の成したことに依り、彼等の成さんとしたことを見なければならぬ。 兵卒 理想的兵卒は苟(いやし)くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に批判を加えぬことである。即ち理想的兵卒はまず理性を失わなければならぬ。 又 理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負わぬことである。即ち理想的兵卒はまず無責任を好まなければならぬ。
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私の好きなロマンス中の女性(わたしのすきなロマンスちゅうのじょせい)露訳短篇集の序(ろやくたんぺんしゅうのじょ)LOS CAPRICHOS(ロス カプリチョス)路上(ろじょう)六の宮の姫君(ろくのみやのひめぎみ)老年(ろうねん)恋愛と夫婦愛とを混同しては不可ぬ(れんあいとめおとあいとをこんどうしてはならぬ)るしへる(るしへる)