煙客翁が私にこの話を聴かせたのは、始めて秋山図を見た時から、すでに五十年近い星霜を経過した後だったのです。その時は元宰先生も、とうに物故していましたし、張氏の家でもいつの間にか、三度まで代が変っていました。ですからあの秋山図も、今は誰の家に蔵されているか、いや、未に亀玉の毀れもないか、それさえ我々にはわかりません。煙客翁は手にとるように、秋山図の霊妙を話してから、残念そうにこう言ったものです。
「あの黄一峯は公孫大嬢の剣器のようなものでしたよ。筆墨はあっても、筆墨は見えない。ただ何とも言えない神気が、ただちに心に迫って来るのです。――ちょうど龍翔の看はあっても、人や剣が我々に見えないのと同じことですよ」
それから一月ばかりの後、そろそろ春風が動きだしたのを潮に、私は独り南方へ、旅をすることになりました。そこで翁にその話をすると、
「ではちょうど好い機会だから、秋山を尋ねてご覧なさい。あれがもう一度世に出れば、画苑の慶事ですよ」と言うのです。
私ももちろん望むところですから、早速翁を煩わせて、手紙を一本書いてもらいました。が、さて遊歴の途に上ってみると、何かと行く所も多いものですから、容易に潤州の張氏の家を訪れる暇がありません。私は翁の書を袖にしたなり、とうとう子規が啼くようになるまで、秋山を尋ねずにしまいました。
その内にふと耳にはいったのは、貴戚の王氏が秋山図を手に入れたという噂です。そういえば私が遊歴中、煙客翁の書を見せた人には、王氏を知っているものも交っていました。王氏はそういう人からでも、あの秋山図が、張氏の家に蔵してあることを知ったのでしょう。何でも坊間の説によれば、張氏の孫は王氏の使を受けると、伝家の彝鼎や法書とともに、すぐさま大癡の秋山図を献じに来たとかいうことです。そうして王氏は喜びのあまり、張氏の孫を上座に招じて、家姫を出したり、音楽を奏したり、盛な饗宴を催したあげく、千金を寿にしたとかいうことです。私はほとんど雀躍しました。滄桑五十載を閲した後でも、秋山図はやはり無事だったのです。のみならず私も面識がある、王氏の手中に入ったのです。昔は煙客翁がいくら苦心をしても、この図を再び看ることは、鬼神が悪むのかと思うくらい、ことごとく失敗に終りました。が、今は王氏の焦慮も待たず、自然とこの図が我々の前へ、蜃楼のように現れたのです。これこそ実際天縁が、熟したと言う外はありません。私は取る物も取りあえず、金にある王氏の第宅へ、秋山を見に出かけて行きました。
今でもはっきり覚えていますが、それは王氏の庭の牡丹が、玉欄の外に咲き誇った、風のない初夏の午過ぎです。私は王氏の顔を見ると、揖もすますかすまさない内に、思わず笑いだしてしまいました。
「もう秋山図はこちらの物です。煙客先生もあの図では、ずいぶん苦労をされたものですが、今度こそはご安心なさるでしょう。そう思うだけでも愉快です」
王氏も得意満面でした。
「今日は煙客先生や廉州先生も来られるはずです。が、まあ、お出でになった順に、あなたから見てもらいましょう」
王氏は早速かたわらの壁に、あの秋山図を懸けさせました。水に臨んだ紅葉の村、谷を埋めている白雲の群、それから遠近に側立った、屏風のような数峯の青、――たちまち私の眼の前には、大癡老人が造りだした、天地よりもさらに霊妙な小天地が浮び上ったのです。私は胸を躍らせながら、じっと壁上の画を眺めました。
この雲煙邱壑は、紛れもない黄一峯です、癡翁を除いては何人も、これほど皴点を加えながら、しかも墨を活かすことは――これほど設色を重くしながら、しかも筆が隠れないことは、できないのに違いありません。しかし――しかしこの秋山図は、昔一たび煙客翁が張氏の家に見たという図と、たしかに別な黄一峯です。そうしてその秋山図よりも、おそらくは下位にある黄一峯です。
私の周囲には王氏を始め、座にい合せた食客たちが、私の顔色を窺っていました。ですから私は失望の色が、寸分も顔へ露われないように、気を使う必要があったのです。が、いくら努めてみても、どこか不服な表情が、我知らず外へ出たのでしょう。王氏はしばらくたってから、心配そうに私へ声をかけました。
「どうです?」
私は言下に答えました。
「神品です。なるほどこれでは煙客先生が、驚倒されたのも不思議はありません」
王氏はやや顔色を直しました。が、それでもまだ眉の間には、いくぶんか私の賞讃に、不満らしい気色が見えたものです。
そこへちょうど来合せたのは、私に秋山の神趣を説いた、あの煙客先生です。翁は王氏に会釈をする間も、嬉しそうな微笑を浮べていました。
「五十年前に秋山図を見たのは、荒れ果てた張氏の家でしたが、今日はまたこういう富貴のお宅に、再びこの図とめぐり合いました。まことに意外な因縁です」
煙客翁はこう言いながら、壁上の大癡を仰ぎ見ました。この秋山がかつて翁の見た秋山かどうか、それはもちろん誰よりも翁自身が明らかに知っているはずです。ですから私も王氏同様、翁がこの図を眺める容子に、注意深い眼を注いでいました。すると果然翁の顔も、みるみる曇ったではありませんか。
しばらく沈黙が続いた後、王氏はいよいよ不安そうに、おずおず翁へ声をかけました。
「どうです? 今も石谷先生は、たいそう褒めてくれましたが、――」
私は正直な煙客翁が、有体な返事をしはしないかと、内心冷や冷やしていました。しかし王氏を失望させるのは、さすがに翁も気の毒だったのでしょう。翁は秋山を見終ると、叮嚀に王氏へ答えました。
「これがお手にはいったのは、あなたのご運が好いのです。ご家蔵の諸宝もこの後は、一段と光彩を添えることでしょう」
しかし王氏はこの言葉を聞いても、やはり顔の憂色が、ますます深くなるばかりです。
その時もし廉州先生が、遅れ馳せにでも来なかったなら、我々はさらに気まずい思いをさせられたに違いありません。しかし先生は幸いにも、煙客翁の賞讃が渋りがちになった時、快活に一座へ加わりました。
「これがお話の秋山図ですか?」
先生は無造作な挨拶をしてから、黄一峯の画に対しました。そうしてしばらくは黙然と、口髭ばかり噛んでいました。
「煙客先生は五十年前にも、一度この図をご覧になったそうです」
王氏はいっそう気づかわしそうに、こう説明を加えました。廉州先生はまだ翁から、一度も秋山の神逸を聞かされたことがなかったのです。
「どうでしょう? あなたのご鑑裁は」
先生は歎息を洩らしたぎり、不相変画を眺めていました。
「ご遠慮のないところを伺いたいのですが、――」
王氏は無理に微笑しながら、再び先生を促しました。
「これですか? これは――」
廉州先生はまた口を噤みました。
「これは?」
「これは癡翁第一の名作でしょう。――この雲煙の濃淡をご覧なさい。元気淋漓じゃありませんか。林木なぞの設色も、まさに天造とも称すべきものです。あすこに遠峯が一つ見えましょう。全体の布局があのために、どのくらい活きているかわかりません」
今まで黙っていた廉州先生は、王氏のほうを顧みると、いちいち画の佳所を指さしながら、盛に感歎の声を挙げ始めました。その言葉とともに王氏の顔が、だんだん晴れやかになりだしたのは、申し上げるまでもありますまい。
私はその間に煙客翁と、ひそかに顔を見合せました。
「先生、これがあの秋山図ですか?」
私が小声にこう言うと、煙客翁は頭を振りながら、妙な瞬きを一つしました。
「まるで万事が夢のようです。ことによるとあの張家の主人は、狐仙か何かだったかもしれませんよ」
* * *
「秋山図の話はこれだけです」
王石谷は語り終ると、おもむろに一碗の茶を啜った。
「なるほど、不思議な話です」
南田は、さっきから銅檠の焔を眺めていた。
「その後王氏も熱心に、いろいろ尋ねてみたそうですが、やはり癡翁の秋山図と言えば、あれ以外に張氏も知らなかったそうです。ですから昔煙客先生が見られたという秋山図は、今でもどこかに隠れているか、あるいはそれが先生の記憶の間違いに過ぎないのか、どちらとも私にはわかりません。まさか先生が張氏の家へ、秋山図を見に行かれたことが、全体幻でもありますまいし、――」
「しかし煙客先生の心の中には、その怪しい秋山図が、はっきり残っているのでしょう。それからあなたの心の中にも、――」
「山石の青緑だの紅葉のの色だのは、今でもありあり見えるようです」
「では秋山図がないにしても、憾むところはないではありませんか?」
王の両大家は、掌を拊って一笑した。
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