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秋山図(しゅうざんず)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-16 9:06:52  点击:  切换到繁體中文



 煙客翁がわたしにこの話を聴かせたのは、始めて秋山図を見た時から、すでに五十年近い星霜せいそうを経過したのちだったのです。その時は元宰げんさい先生も、とうに物故ぶっこしていましたし、張氏ちょうしの家でもいつのにか、三度まで代が変っていました。ですからあの秋山図も、今は誰の家に蔵されているか、いや、いまだ亀玉きぎょくやぶれもないか、それさえ我々にはわかりません。煙客翁は手にとるように、秋山図の霊妙を話してから、残念そうにこう言ったものです。
「あの黄一峯は公孫大嬢こうそんたいじょう剣器けんきのようなものでしたよ。筆墨はあっても、筆墨は見えない。ただ何とも言えない神気しんきが、ただちに心に迫って来るのです。――ちょうど龍翔りょうしょうかんはあっても、人やつるぎが我々に見えないのと同じことですよ」
 それから一月ひとつきばかりののち、そろそろ春風しゅんぷうが動きだしたのをしおに、私は独り南方へ、旅をすることになりました。そこでおうにその話をすると、
「ではちょうどい機会だから、秋山しゅうざんを尋ねてごらんなさい。あれがもう一度世に出れば、画苑がえん慶事けいじですよ」と言うのです。
 私ももちろん望むところですから、早速翁をわずらわせて、手紙を一本書いてもらいました。が、さて遊歴ゆうれきに上ってみると、何かと行く所も多いものですから、容易に潤州じゅんしゅうの張氏の家を訪れるひまがありません。私は翁の書をそでにしたなり、とうとう子規ほととぎすくようになるまで、秋山しゅうざんを尋ねずにしまいました。
 その内にふと耳にはいったのは、貴戚きせき王氏おうしが秋山図を手に入れたといううわさです。そういえばわたしが遊歴中、煙客翁えんかくおうの書を見せた人には、王氏を知っているものもまじっていました。王氏はそういう人からでも、あの秋山図が、張氏ちょうしの家に蔵してあることを知ったのでしょう。何でも坊間ぼうかんの説によれば、張氏の孫は王氏おうしの使を受けると、伝家の彝鼎いていや法書とともに、すぐさま大癡たいちの秋山図を献じに来たとかいうことです。そうして王氏は喜びのあまり、張氏の孫を上座に招じて、家姫かきを出したり、音楽を奏したり、盛な饗宴きょうえんを催したあげく、千金を寿じゅにしたとかいうことです。私はほとんど雀躍じゃくやくしました。滄桑五十載そうそうごじっさいけみしたのちでも、秋山図はやはり無事だったのです。のみならず私も面識がある、王氏の手中に入ったのです。昔は煙客翁がいくら苦心をしても、この図を再びることは、鬼神きじんにくむのかと思うくらい、ことごとく失敗に終りました。が、今は王氏の焦慮しょうりょも待たず、自然とこの図が我々の前へ、蜃楼しんろうのように現れたのです。これこそ実際天縁が、熟したと言うほかはありません。私は取る物も取りあえず、※(「門<昌」、第3水準1-93-51)きんしょうにある王氏の第宅ていたくへ、秋山を見に出かけて行きました。
 今でもはっきり覚えていますが、それは王氏の庭の牡丹ぼたんが、玉欄ぎょくらんそとに咲き誇った、風のない初夏の午過ひるすぎです。私は王氏の顔を見ると、ゆうもすますかすまさない内に、思わず笑いだしてしまいました。
「もう秋山図はこちらの物です。煙客先生もあの図では、ずいぶん苦労をされたものですが、今度こそはご安心なさるでしょう。そう思うだけでも愉快です」
 王氏も得意満面でした。
今日きょうは煙客先生や廉州れんしゅう先生も来られるはずです。が、まあ、お出でになった順に、あなたから見てもらいましょう」
 王氏は早速かたわらの壁に、あの秋山図をけさせました。水に臨んだ紅葉こうようの村、谷をうずめている白雲はくうんむれ、それから遠近おちこち側立そばだった、屏風びょうぶのような数峯のせい、――たちまち私の眼の前には、大癡老人が造りだした、天地よりもさらに霊妙な小天地が浮び上ったのです。私は胸をおどらせながら、じっと壁上の画を眺めました。
 この雲煙邱壑うんえんきゅうがくは、まぎれもない黄一峯こういっぽうです、癡翁ちおうを除いては何人なんぴとも、これほど皴点しゅんてんを加えながら、しかも墨をかすことは――これほど設色せっしょくを重くしながら、しかも筆が隠れないことは、できないのに違いありません。しかし――しかしこの秋山図は、昔一たび煙客翁が張氏の家に見たという図と、たしかに別な黄一峯こういっぽうです。そうしてその秋山図しゅうざんずよりも、おそらくは下位にある黄一峯です。
 わたしの周囲には王氏を始め、座にい合せた食客しょっかくたちが、私の顔色かおいろうかがっていました。ですから私は失望の色が、寸分すんぶんも顔へあらわれないように、気を使う必要があったのです。が、いくら努めてみても、どこか不服な表情が、我知らず外へ出たのでしょう。王氏はしばらくたってから、心配そうに私へ声をかけました。
「どうです?」
 私は言下ごんかに答えました。
「神品です。なるほどこれでは煙客えんかく先生が、驚倒きょうとうされたのも不思議はありません」
 王氏はやや顔色を直しました。が、それでもまだまゆの間には、いくぶんか私の賞讃しょうさんに、不満らしい気色けしきが見えたものです。
 そこへちょうど来合せたのは、私に秋山の神趣を説いた、あの煙客先生です。翁は王氏に会釈えしゃくをするも、嬉しそうな微笑を浮べていました。
「五十年ぜんに秋山図を見たのは、荒れ果てた張氏の家でしたが、今日きょうはまたこういう富貴ふうきのお宅に、再びこの図とめぐり合いました。まことに意外な因縁です」
 煙客翁はこう言いながら、壁上の大癡たいちを仰ぎ見ました。この秋山がかつて翁の見た秋山かどうか、それはもちろん誰よりも翁自身が明らかに知っているはずです。ですから私も王氏同様、翁がこの図を眺める容子ようすに、注意深い眼を注いでいました。すると果然かぜん翁の顔も、みるみる曇ったではありませんか。
 しばらく沈黙が続いたのち、王氏はいよいよ不安そうに、おずおず翁へ声をかけました。
「どうです? 今も石谷せきこく先生は、たいそうめてくれましたが、――」
 私は正直な煙客翁が、有体ありていな返事をしはしないかと、内心やしていました。しかし王氏を失望させるのは、さすがに翁も気の毒だったのでしょう。翁は秋山を見終ると、叮嚀ていねいに王氏へ答えました。
「これがお手にはいったのは、あなたのご運がいのです。ご家蔵かぞう諸宝しょほうもこののちは、一段と光彩を添えることでしょう」
 しかし王氏はこの言葉を聞いても、やはり顔の憂色ゆうしょくが、ますます深くなるばかりです。
 その時もし廉州れんしゅう先生が、おくせにでも来なかったなら、我々はさらに気まずい思いをさせられたに違いありません。しかし先生は幸いにも、煙客翁の賞讃が渋りがちになった時、快活に一座へ加わりました。
「これがお話の秋山図ですか?」
 先生は無造作むぞうさ挨拶あいさつをしてから、黄一峯こういっぽうに対しました。そうしてしばらくは黙然もくねんと、口髭くちひげばかりんでいました。
煙客先生えんかくせんせいは五十年ぜんにも、一度この図をご覧になったそうです」
 王氏はいっそう気づかわしそうに、こう説明を加えました。廉州れんしゅう先生はまだ翁から、一度も秋山しゅうざん神逸しんいつを聞かされたことがなかったのです。
「どうでしょう? あなたのご鑑裁かんさいは」
 先生は歎息たんそくを洩らしたぎり、不相変あいかわらず画を眺めていました。
「ご遠慮のないところをうかがいたいのですが、――」
 王氏は無理に微笑しながら、再び先生を促しました。
「これですか? これは――」
 廉州先生はまた口をつぐみました。
「これは?」
「これは癡翁ちおう第一の名作でしょう。――この雲煙の濃淡をご覧なさい。元気淋漓りんりじゃありませんか。林木なぞの設色せっしょくも、まさに天造てんぞうとも称すべきものです。あすこに遠峯が一つ見えましょう。全体の布局ふきょくがあのために、どのくらいきているかわかりません」
 今まで黙っていた廉州先生は、王氏のほうをかえりみると、いちいち画の佳所かしょを指さしながら、さかんに感歎の声をげ始めました。その言葉とともに王氏の顔が、だんだん晴れやかになりだしたのは、申し上げるまでもありますまい。
 私はそのあいだに煙客翁と、ひそかに顔を見合せました。
「先生、これがあの秋山図ですか?」
 私が小声にこう言うと、煙客翁は頭を振りながら、妙なまばたきを一つしました。
「まるで万事が夢のようです。ことによるとあの張家ちょうけの主人は、狐仙こせんか何かだったかもしれませんよ」

      *     *     *

「秋山図の話はこれだけです」
 王石谷おうせきこくは語り終ると、おもむろに一碗の茶をすすった。
「なるほど、不思議な話です」
 ※(「りっしんべん+軍」、第4水準2-12-56)南田うんなんでんは、さっきから銅檠どうけいほのおを眺めていた。
「その王氏も熱心に、いろいろたずねてみたそうですが、やはり癡翁の秋山図と言えば、あれ以外に張氏も知らなかったそうです。ですから昔煙客先生が見られたという秋山図は、今でもどこかに隠れているか、あるいはそれが先生の記憶の間違いに過ぎないのか、どちらとも私にはわかりません。まさか先生が張氏の家へ、秋山図を見に行かれたことが、全体まぼろしでもありますまいし、――」
「しかし煙客先生えんかくせんせいの心のうちには、その怪しい秋山図が、はっきり残っているのでしょう。それからあなたの心のなかにも、――」
「山石の青緑だの紅葉の※(「石+朱」、第3水準1-89-1)しゅの色だのは、今でもありあり見えるようです」
「では秋山図がないにしても、うらむところはないではありませんか?」
 ※(「りっしんべん+軍」、第4水準2-12-56)うんおうの両大家は、たなごころって一笑した。





底本:「日本文学全集28芥川龍之介集」集英社
   1972(昭和47)年9月8日発行
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年5月15日公開
2004年3月8日修正
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    「糸+貴」    174-下-19

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