七
でございますからこの御姫様に、想を懸けていらしった方々の間には、まるで竹取物語の中にでもありそうな、可笑しいことが沢山ございましたが、中でも一番御気の毒だったのは京極の左大弁様で、この方は京童が鴉の左大弁などと申し上げたほど、顔色が黒うございましたが、それでもやはり人情には変りもなく、中御門の御姫様を恋い慕っていらっしゃいました。所がこの方は御利巧だと同時に、気の小さい御性質だったと見えまして、いかに御姫様を懐しく思召しても、御自分の方からそれとは御打ち明けなすった事もございませんし、元よりまた御同輩の方にも、ついぞそれらしい事を口に出して、仰有った例はございません。しかし忍び忍びに御姫様の御顔を拝みに参ります事は、隠れない事でございますから、ある時、それを枷にして、御同輩の誰彼が、手を換え品を換え、いろいろと問い落そうと御かかりになりました。すると鴉の左大弁様は、苦しまぎれの御一策に、
「いや、あれは何も私が想を懸けているばかりではない。実は姫の方からも、心ありげな風情を見せられるので、ついつい足が茂くなるのだ。」と、こう御逃げになりました。しかもそれを誠らしく見せかけようと云う出来心から、御姫様から頂いた御文の文句や、御歌などを、ある事もない事も皆一しょに取つくろって、さも御姫様の方が心を焦していらっしゃるように、御話しになったからたまりません。元より悪戯好きな御同輩たちは、半信半疑でいらっしゃりながら、早速御姫様の偽手紙を拵えて、折からの藤の枝か何かにつけたまま、それを左大弁様の許へ御とどけになりました。
こちらは京極の左大弁様で、何事かと胸を轟かせながら、慌て御文を開けて見ますと、思いもよらず御姫様は、いかに左大弁様を思いわびてもとんとつれなく御もてなしになるから、所詮かなわぬ恋とあきらめて、尼法師の境涯にはいると云う事が、いかにももの哀れに書いてあるではございませんか。まさかそうまで御姫様が、思いつめていらっしゃろうとは、夢にも思召さなかったのでございますから、鴉の左大弁様は悲しいとも、嬉しいともつかない御心もちで、しばらくはただ、茫然と御文を前にひろげたまま、溜息をついていらっしゃいました。が、何はともあれ、御眼にかかって、今まで胸にひそめていた想のほども申し上げようと、こう思召したのでございましょう。丁度五月雨の暮方でございましたが、童子を一人御伴に御つれになって、傘をかざしながら、ひそかに二条西洞院の御屋形まで参りますと、御門は堅く鎖してあって、いくら音なっても叩いても、開ける気色はございません。そうこうする内に夜になって、人の往来も稀な築土路には、ただ、蛙の声が聞えるばかり、雨は益降りしきって、御召物も濡れれば、御眼も眩むと云う情ない次第でございます。
それがほど経てから、御門の扉が、やっと開いたと思いますと、平太夫と申します私くらいの老侍が、これも同じような藤の枝に御文を結んだのを渡したなり、無言でまた、その扉をぴたりと閉めてしまいました。
そこで泣く泣く御立ち帰りになって、その御文を開けて御覧になると、一首の古歌がちらし書きにしてあるだけで、一言もほかには御便りがございません。
思へども思はずとのみ云ふなればいなや思はじ思ふかひなし
これは云うまでもなく御姫様が、悪戯好きの若殿原から、細々と御消息で、鴉の左大弁様の心なしを御承知になっていたのでございます。
八
こう御話し致しますと、中には世の常の姫君たちに引き比べて、この御姫様の御行状を、嘘のように思召す方もいらっしゃいましょうが、現在私が御奉公致している若殿様の事を申し上げながら、何もそのような空事をさし加えよう道理はございません。その頃洛中で評判だったのは、この御姫様ともう御一方、これは虫が大御好きで、長虫までも御飼いになったと云う、不思議な御姫様がございました。この後の御姫様の事は、全くの余談でございますから、ここには何も申し上げますまい。が、中御門の御姫様は、何しろ御両親とも御隠れになって、御屋形にはただ、先刻御耳に入れました平太夫を頭にして、御召使の男女が居りますばかり、それに御先代から御有福で、何御不自由もございませんでしたから、自然御美しいのと、御闊達なのとに御任せなすって、随分世を世とも思わない、御放胆な真似もなすったのでございます。
そこで噂を立て易い世間には、この御姫様御自身が、実は少納言様の北の方と大殿様との間に御生まれなすったので、父君の御隠れなすったのも、恋の遺恨で大殿様が毒害遊ばしたのだなどと申す輩も出て来るのでございましょう。しかし少納言様の急に御歿くなりになった御話は、前に一応申上げました通り、さらにそのような次第ではございませんから、その噂は申すまでもなく、皆跡方のない嘘でございます。さもなければ若殿様も、決してあれほどまでは御姫様へ、心を御寄せにはなりますまい。
何でも私が人伝に承わりました所では、初めはいくら若殿様の方で御熱心でも、御姫様は反って誰よりも、素気なく御もてなしになったとか申す事でございます。いや、そればかりか、一度などは若殿様の御文を持って上った私の甥に、あの鴉の左大弁様同様、どうしても御門の扉を御開けにならなかったとかでございました。しかもあの平太夫が、なぜか堀川の御屋形のものを仇のように憎みまして、その時も梨の花に、うらうらと春日がっている築地の上から白髪頭を露して、檜皮の狩衣の袖をまくりながら、推しても御門を開こうとする私の甥に、
「やい、おのれは昼盗人か。盗人とあれば容赦はせぬ。一足でも門内にはいったが最期、平太夫が太刀にかけて、まっ二つに斬って捨てるぞ。」と、噛みつくように喚きました。もしこれが私でございましたら、刃傷沙汰にも及んだでございましょうが、甥はただ、道ばたの牛の糞を礫代りに投げつけただけで、帰って来たと申して居りました。かような次第でございますから、元より御文が無事に御手許にとどいても、とんと御返事と申すものは頂けません。が、若殿様は、一向それにも御頓着なく、三日にあげず、御文やら御歌やら、あるいはまた結構な絵巻やらを、およそものの三月あまりも、根気よく御遣しになりました。さればこそ、日頃も仰有る通り、「あの頃の予が夢中になって、拙い歌や詩を作ったのは、皆恋がさせた業じゃ。」に、少しも違いはなかったのでございます。
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