六
その御話のそもそもは、確か大殿様が御隠れになってから、五六年たった頃でございますが、丁度その時分若殿様は、前に申しあげました中御門の少納言様の御一人娘で、評判の美しい御姫様へ、茂々御文を書いていらっしゃいました。ただ今でもあの頃の御熱心だった御噂が、私どもの口から洩れますと、若殿様はいつも晴々と御笑いになって、
「爺よ。天が下は広しと云え、あの頃の予が夢中になって、拙い歌や詩を作ったのは皆、恋がさせた業じゃ。思えば狐の塚を踏んで、物に狂うたのも同然じゃな。」と、まるで御自分を嘲るように、洒落としてこう仰有います。が、全く当時の若殿様は、それほど御平生に似もやらず、恋慕三昧に耽って御出でになりました。
しかし、これは、あながち、若殿様御一人に限った事ではございません。あの頃の年若な殿上人で、中御門の御姫様に想いを懸けないものと云ったら、恐らく御一方もございますまい。あの方が阿父様の代から、ずっと御住みになっていらっしゃる、二条西洞院の御屋形のまわりには、そう云う色好みの方々が、あるいは車を御寄せになったり、あるいは御自身御拾いで御出でになったり、絶えず御通い遊ばしたものでございます。中には一夜の中に二人まで、あの御屋形の梨の花の下で、月に笛を吹いている立烏帽子があったと云う噂も、聞き及んだ事がございました。
いや、現に一時は秀才の名が高かった菅原雅平とか仰有る方も、この御姫様に恋をなすって、しかもその恋がかなわなかった御恨みから、俄に世を御捨てになって、ただ今では筑紫の果に流浪して御出でになるとやら、あるいはまた東海の波を踏んで唐土に御渡りになったとやら、皆目御行方が知れないと申すことでございます。この方などは若殿様とも、詩文の御交りの深かった御一人で、御消息などをなさる時は、若殿様を楽天に、御自分を東坡に比していらしったそうでございますが、そう云う風流第一の才子が、如何に中御門の御姫様は御美しいのに致しましても、一旦の御歎きから御生涯を辺土に御送りなさいますのは、御不覚と申し上げるよりほかはございますまい。
が、また飜って考えますと、これも御無理がないと思われるくらい、中御門の御姫様と仰有る方は、御美しかったのでございます。私が一両度御見かけ申しました限でも、柳桜をまぜて召して、錦に玉を貫いた燦びやかな裳の腰を、大殿油の明い光に、御輝かせになりながら、御も重そうにうち傾いていらしった、あのあでやかな御姿は一生忘れようもございますまい。しかもこの御姫様は御気象も並々ならず御闊達でいらっしゃいましたから、なまじいな殿上人などは、思召しにかなう所か、すぐに本性を御見透しになって、とんと御寵愛の猫も同様、さんざん御弄りになった上、二度と再び御膝元へもよせつけないようになすってしまいました。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >> 尾页