四
それから大殿様の御隠れになる時まで、御親子の間には、まるで二羽の蒼鷹が、互に相手を窺いながら、空を飛びめぐっているような、ちっとの隙もない睨み合いがずっと続いて居りました。が、前にも申し上げました通り若殿様は、すべて喧嘩口論の類が、大御嫌いでございましたから、大殿様の御所業に向っても、楯を御つきになどなった事は、ほとんど一度もございません。ただ、その度に皮肉な御微笑を、あの癖のある御口元にちらりと御浮べになりながら、一言二言鋭い御批判を御漏らしになるばかりでございます。
いつぞや大殿様が、二条大宮の百鬼夜行に御遇いになっても、格別御障りのなかった事が、洛中洛外の大評判になりますと、若殿様は私に御向いになりまして、「鬼神が鬼神に遇うたのじゃ。父上の御身に害がなかったのは、不思議もない。」と、さも可笑しそうに仰有いましたが、その後また、東三条の河原院で、夜な夜な現れる融の左大臣の亡霊を、大殿様が一喝して御卻けになった時も、若殿様は例の通り、唇を歪めて御笑いになりながら、
「融の左大臣は、風月の才に富んで居られたと申すではないか。されば父上づれは、話のあとを打たせるにも足らぬと思われて、消え失せられたに相違ない。」と、仰有ったのを覚えて居ります。
それがまた大殿様には、何よりも御耳に痛かったと見えまして、ふとした拍子に、こう云う若殿様の御言葉が、御聞きに達する事でもございますと、上べは苦笑いに御紛わしなすっても、御心中の御怒りはありありと御顔に読まれました。現に内裡の梅見の宴からの御帰りに、大殿様の御車の牛がそれて、往来の老人に怪我させた時、その老人が反って手を合せて、権者のような大殿様の御牛にかけられた冥加のほどを、難有がった事がございましたが、その時も若殿様は、大殿様のいらっしゃる前で、牛飼いの童子に御向いなさりながら、「その方はうつけものじゃな。所詮牛をそらすくらいならば、なぜ車の輪にかけて、あの下司を轢き殺さぬ。怪我をしてさえ、手を合せて、随喜するほどの老爺じゃ。轍の下に往生を遂げたら、聖衆の来迎を受けたにも増して、難有く心得たに相違ない。されば父上の御名誉も、一段と挙がろうものを。さりとは心がけの悪い奴じゃ。」と、仰有ったものでございます。その時の大殿様の御機嫌の悪さと申しましたら、今にも御手の扇が上って、御折檻くらいは御加えになろうかと、私ども一同が胆を冷すほどでございましたが、それでも若殿様は晴々と、美しい歯を見せて御笑いになりながら、
「父上、父上、そう御腹立ち遊ばすな。牛飼めもあの通り、恐れ入って居るようでございます。この後とも精々心にかけましたら、今度こそは立派に人一人轢き殺して、父上の御名誉を震旦までも伝える事でございましょう。」と、素知らぬ顔で仰有ったものでございますから、大殿様もとうとう我を御折りになったと見えて、苦い顔をなすったまま、何事もなく御立ちになってしまいました。
こう云う御間がらでございましたから、大殿様の御臨終を、じっと御目守りになっていらっしゃる若殿様の御姿ほど、私どもの心の上に不思議な影を宿したものはございません。今でもその時の事を考えますと、まるで磨ぎすました焼刃のいを嗅ぐような、身にしみてひやりとする、と同時にまた何となく頼もしい、妙な心もちが致した事は、先刻もう御耳に入れて置きました。誠にその時の私どもには、心から御代替りがしたと云う気が、――それも御屋形の中ばかりでなく、一天下にさす日影が、急に南から北へふり変ったような、慌しい気が致したのでございます。
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