十三
そこでお話は元へ戻りますが、その間に若殿様は、思いもよらない出来事から、予て御心を寄せていらしった中御門の御姫様と、親しい御語いをなさる事が御出来なさるように相成りました。その思いもよらない事と申しますのは、もう花橘のと時鳥の声とが雨もよいの空を想わせる、ある夜の事でございましたが、その夜は珍しく月が出て、夜目にも、朧げには人の顔が見分けられるほどだったと申します。若殿様はある女房の所へ御忍びになった御帰り途で、御供の人数も目立たないように、僅か一人か二人御召連れになったまま、その明るい月の中を車でゆっくりと御出でになりました。が、何しろ時刻が遅いので、人っ子一人通らない往来には、遠田の蛙の声と、車の輪の音とが聞えるばかり、殊にあの寂しい美福門の外は、よく狐火の燃える所だけに、何となく鬼気が身に迫って、心無い牛の歩みさえ早くなるような気が致されます。――そう思うと、急に向うの築土の陰で、怪しい咳の声がするや否や、きらきらと白刃を月に輝かせて、盗人と覚しい覆面の男が、左右から凡そ六七人、若殿様の車を目がけて、猛々しく襲いかかりました。
と同時に牛飼の童部を始め、御供の雑色たちは余りの事に、魂も消えるかと思ったのでございましょう。驚破と云う間もなく、算を乱して、元来た方へ一散に逃げ出してしまいました。が、盗人たちはそれには目もくれる気色もなく、矢庭に一人が牛のを取って、往来のまん中へぴたりと車を止めるが早いか、四方から白刃の垣を造って、犇々とそのまわりを取り囲みますと、先ず頭立ったのが横柄に簾を払って、「どうじゃ。この殿に違いはあるまいな。」と、仲間の方を振り向きながら、念を押したそうでございます。その容子がどうも物盗りとも存ぜられませんので、御驚きの中にも若殿様は不審に思召されたのでございましょう。それまでじっとしていらっしったのが、扇を斜に相手の方を、透かすようにして御窺いなさいますと、その時その盗人の中に嗄れた声がして、
「おう、しかとこの殿じゃ。」と、憎々しげに答えました。するとその声が、また何となくどこかで一度、御耳になすったようでございましたから、愈怪しく思召して、明るい月の光に、その声の主を、きっと御覧になりますと、面こそ包んで居りますが、あの中御門の御姫様に年久しく御仕え申している、平太夫に相違はございません。この一刹那はさすがの若殿様も、思わず総身の毛がよだつような、恐ろしい思いをなすったと申す事でございました。なぜと申しますと、あの平太夫が堀川の御一家を仇のように憎んでいる事は、若殿様の御耳にも、とうからはいっていたからでございます。
いや、現にその時も、平太夫がそう答えますと、さっきの盗人は一層声を荒げて、太刀の切先を若殿様の御胸に向けながら、
「さらば御命を申受けようず。」と罵ったと申すではございませんか。
十四
しかしあの飽くまでも、物に御騒ぎにならない若殿様は、すぐに勇気を御取り直しになって、悠々と扇を御弄びなさりながら、
「待て。待て。予の命が欲しくば、次第によって呉れてやらぬものでもない。が、その方どもは、何でそのようなものを欲しがるのじゃ。」と、まるで人事のように御尋ねになりました。すると頭立った盗人は、白刃を益御胸へ近づけて、
「中御門の少納言殿は、誰故の御最期じゃ。」
「予は誰やら知らぬ。が、予でない事だけは、しかとした証もある。」
「殿か、殿の父君か。いずれにしても、殿は仇の一味じゃ。」
頭立った一人がこう申しますと、残りの盗人どもも覆面の下で、
「そうじゃ。仇の一味じゃ。」と、声々に罵り交しました。中にもあの平太夫は歯噛みをして、車の中を獣のように覗きこみながら、太刀で若殿様の御顔を指さしますと、
「さかしらは御無用じゃよ。それよりは十念なと御称え申されい。」と、嘲笑うような声で申したそうでございます。
が、若殿様は相不変落ち着き払って、御胸の先の白刃も見えないように、
「してその方たちは、皆少納言殿の御内のものか。」と、抛り出すように御尋ねなさいました。すると盗人たちは皆どうしたのか、一しきり答にためらったようでございましたが、その気色を見てとった平太夫は、透かさず声を励まして、
「そうじゃ。それがまた何と致した。」
「いや、何とも致さぬが、もしこの中に少納言殿の御内でないものがいたと思え。そのものこそは天が下の阿呆ものじゃ。」
若殿様はこう仰有って、美しい歯を御見せになりながら、肩を揺って御笑いになりました。これには命知らずの盗人たちも、しばらくは胆を奪われたのでございましょう。御胸に迫っていた太刀先さえ、この時はもう自然と、車の外の月明りへ引かれていたと申しますから。
「なぜと申せ。」と、若殿様は言葉を御継ぎになって、「予を殺害した暁には、その方どもはことごとく検非違使の目にかかり次第、極刑に行わるべき奴ばらじゃ。元よりそれも少納言殿の御内のものなら、己が忠義に捨つる命じゃによって、定めて本望に相違はあるまい。が、さもないものがこの中にあって、わずかばかりの金銀が欲しさに、予が身を白刃に向けるとすれば、そやつは二つとない大事な命を、その褒美と換えようず阿呆ものじゃ。何とそう云う道理ではあるまいか。」
これを聞いた盗人たちは、今更のように顔を見合せたけはいでございましたが、平太夫だけは独り、気違いのように吼り立って、
「ええ、何が阿呆ものじゃ。その阿呆ものの太刀にかかって、最期を遂げる殿の方が、百層倍も阿呆ものじゃとは覚されぬか。」
「何、その方どもが阿呆ものだとな。ではこの中に少納言殿の御内でないものもいるのであろう。これは一段と面白うなって参った。さらばその御内でないものどもに、ちと申し聞かす事がある。その方どもが予を殺害しようとするのは、全く金銀が欲しさにする仕事であろうな。さて金銀が欲しいとあれば、予はその方どもに何なりと望み次第の褒美を取らすであろう。が、その代り予の方にもまた頼みがある。何と、同じ金銀のためにする事なら、褒美の多い予の方に味方して、利得を計ったがよいではないか。」
若殿様は鷹揚に御微笑なさりながら、指貫の膝を扇で御叩きになって、こう車の外の盗人どもと御談じになりました。
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