芥川龍之介全集 第一巻 |
岩波書店 |
1995(平成7)年11月8日 |
1995(平成7)年11月8日 |
私が、遠洋航海をすませて、やつと半玉(軍艦では、候補生の事をかう云ふのです)の年期も終らうと云ふ時でした。私の乗つてゐたAが、横須賀へ入港してから、三日目の午後、彼是三時頃でしたらう。勢よく例の上陸員整列の喇叭が鳴つたのです。確、右舷が上陸する順番になつてゐたと思ひますが、それが皆、上甲板へ整列したと思ふと、今度は、突然、総員集合の喇叭が鳴りました。勿論、唯事ではありません。何にも事情を知らない私たちは、艙口を上りながら、互に「どうしたのだらう」と云ひ交はしました。
さて、総員が集合して見ると、副長がかう云ふのです。「……本艦内で、近来、盗難に罹つた者が、二三ある。殊に、昨日、町の時計屋が来た際にも、銀側の懐中時計が二個、紛失したと云ふ事であるから、今日はこれから、総員の身体検査を行ひ、同時に所持品の検査も行ふ事にする。……」大体、こんな意味だつたと思ひます。時計屋の一件は、初耳ですが、盗難に罹つた者があるのは、僕たちも知つてゐました。何でも、兵曹が一人に水兵が二人で、皆、金をとられたと云ふ事です。
身体検査ですから、勿論、皆、裸にさせられるのですが、幸、十月の始で、港内に浮んでゐる赤い浮標に日がかんかん照りつけるのを見ると、まだ、夏らしい気がする時分なので、これはさう大して苦にもならなかつたやうです。が、弱つたのは、上陸早々、遊びに行く気でゐた連中で、検査をされると、ポツケツトから春画が出る、サツクが出ると云ふ騒ぎでせう。顔を赤くして、もぢもぢしたつて、追付きません。何でも、二三人は、士官に擲られたやうでした。
何しろ、総員六百人もあるのですから、一通り検査をするにしても、手間がとれます。奇観と云へば、まああの位、奇観はありますまい。六百人の人間が皆、裸で、上甲板一杯に、並んでゐるのですから。その中でも、顔や手首のまつ黒なのが、機関兵で、この連中は今度の盗難に、一時嫌疑をかけられた事があるものですから、猿股までぬいで、検べるのならどこでも検べてくれと云ふ恐しいやうな権幕です。
上甲板で、かう云ふ騒ぎが、始まつてゐる間に、中甲板や下甲板では、所持品の検査をやり出しました。艙口にはのこらず、候補生が配置してありますから、上甲板の連中は勿論下へは一足でもはいれません。私は、丁度、その中下甲板の検査をする役に当つたので、外の仲間と一しよに、兵員の衣嚢やら手箱やらを検査して歩きました。こんな事をするのは軍艦に乗つてから、まだ始めてでしたが、ビイムの裏を探すとか衣嚢をのせてある棚の奥をかきまはすとか、思つたより、面倒な仕事です。その中に、やつと、私と同じ候補生の牧田と云ふ男が、贓品を見つけました。時計も金も一つになつて、奈良島と云ふ信号兵の帽子の箱の中に、あつたのです。その外にまだ給仕がなくなしたと云ふ、青貝の柄のナイフも、はいつてゐたと云ふ事でした。
そこで、「解散」から、すぐに「信号兵集れ」と云ふ事になりました。外の連中は悦んだの、悦ばないのではありません。殊に、機関兵などは、前に疑はれたと云ふ廉があるものですから、大へんな嬉しがりやうでした。――所が集つた信号兵を見ると、奈良島がゐません。
僕は、まだ無経験だつたので、さう云ふ事は、まるで知りませんでしたが、軍艦では贓品が出ても、犯人の出ないと云ふ事が、時々あるのださうです。勿論、自殺をするのですが、十中八九は、石炭庫の中で首を縊るので、投身するのは、殆、ありません。最も一度、私の軍艦では、ナイフで腹を切つたのがゐたさうですが、これは死に切れない中に、発見されて命だけはとりとめたと云ふ事でした。
さう云ふ事があるものですから、奈良島が見えないと云ふと、将校連も皆流石に、ぎよつとしたやうでした。殊に、今でも眼についてゐるのは、副長の慌て方で、この前の戦争の時には、随分、驍名を馳せた人ださうですが、その顔色を変へて、心配した事と云つたら、はた眼にも笑止な位です。私たちは皆、それを見ては、互に、軽蔑の眼を交してゐました。ふだん精神修養の何のと云ふ癖に、あの狼狽のしかたはどうだと云ふ、腹があつたのです。
そこで、すぐに、副長の命令で、艦内の捜索が始まりました。さうなると、一種の愉快な興奮に駆られるのは、私一人に限つた事ではないでせう。火事を見にゆく弥次馬の心もち――丁度、あんなものです。巡査が犯人を逮捕に行くとなると、向うが抵抗するかも知れないと云ふ不安があるでせうが、軍艦の中ではそんな事は、万々ありません。殊に、私たちと水兵との間には、上下の区別と云ふものが、厳として、――軍人になつて見なければ、わからない程、厳としてありますから、それが、非常な強みです。私は、殆、踴躍して、艙口を駈け下りました。
丁度、その時、私と一しよに、下へ来た連中の中に、牧田がゐましたが、これも、面白くつてたまらないと云ふ風で、後から、私の肩をたたきながら、
「おい、猿をつかまへた時の事を思出すな。」
と云ふのです。
「うん、今日の猿は、あいつ程敏捷でないから、大丈夫だ。」
「そんなに高を括つてゐると、逃げられるぞ。」
「なに、逃げたつて、猿は猿だ。」
こんな冗談を云ひながら、下へ下りました。
この猿と云ふのは、遠洋航海で、オオストラリアへ行つた時に、ブリスベインで、砲術長が、誰かから貰つて来た猿の事です。それが、航海中、ウイルヘルムス、ハフエンへ入港する二日前に、艦長の時計を持つたなり、どこかへ行つてしまつたので、軍艦中大騒ぎになりました。一つは、永の航海で、無聊に苦んでゐたと云ふ事もあるのですが、当の砲術長はもとより、私たち総出で、事業服のまま、下は機関室から上は砲塔まで、さがして歩く――一通りの混雑ではありません。それに、外の連中の貰つたり、買つたりした動物が沢山あるので、私たちが駈けて歩くと、犬が足にからまるやら、ペリカンが啼き出すやら、ロオプに吊つてある籠の中で、鸚哥が、気のちがつたやうに、羽搏きをするやら、まるで、曲馬小屋で、火事でも始まつたやうな体裁です。その中に、猿の奴め、どこをどうしたか、急に上甲板へ出て来て、時計を持つたまま、いきなりマストへ、駈け上らうとしました。丁度そこには、水兵が二三人仕事をしてゐたので勿論、逃がしつこはありません。すぐに、一人が、頸すぢをつかまへて、難なく、手捕りにしてしまひました。時計も、硝子がこはれた丈で、大した損害もなくてすんだのです。あとで猿は、砲術長の発案で、満二日、絶食の懲罰をうけたのですが、滑稽ではありませんか、その期限が切れない中に、砲術長自身、罰則を破つて、猿に、人参や芋を、やつてしまひました。さうして、「しよげてゐるのを見ると、猿にしても、可哀さうだからな」と、かう云ふのです。――これは、余事ですが、実際奈良島をさがして歩く私たちの心もちは、この猿を追ひかけた時の心もちと、可成よく似てゐました。
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