現代日本文学大系 43 芥川龍之介集 |
筑摩書房 |
1968(昭和43)年8月25日 |
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷 |
1 この人を見よ
わたしは彼是十年ばかり前に芸術的にクリスト教を――殊にカトリツク教を愛してゐた。長崎の「日本の聖母の寺」は未だに私の記憶に残つてゐる。かう云ふわたしは北原白秋氏や木下杢太郎氏の播いた種をせつせと拾つてゐた鴉に過ぎない。それから又何年か前にはクリスト教の為に殉じたクリスト教徒たちに或興味を感じてゐた。殉教者の心理はわたしにはあらゆる狂信者の心理のやうに病的な興味を与へたのである。わたしはやつとこの頃になつて四人の伝記作者のわたしたちに伝へたクリストと云ふ人を愛し出した。クリストは今日のわたしには行路の人のやうに見ることは出来ない。それは或は紅毛人たちは勿論、今日の青年たちには笑はれるであらう。しかし十九世紀の末に生まれたわたしは彼等のもう見るのに飽きた、――寧ろ倒すことをためらはない十字架に目を注ぎ出したのである。日本に生まれた「わたしのクリスト」は必しもガリラヤの湖を眺めてゐない。赤あかと実のつた柿の木の下に長崎の入江も見えてゐるのである。従つてわたしは歴史的事実や地理的事実を顧みないであらう。(それは少くともジヤアナリステイツクには困難を避ける為ではない。若し真面目に構へようとすれば、五六冊のクリスト伝は容易にこの役をはたしてくれるのである。)それからクリストの一言一行を忠実に挙げてゐる余裕もない。わたしは唯わたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記すのである。厳しい日本のクリスト教徒も売文の徒の書いたクリストだけは恐らくは大目に見てくれるであらう。
2 マリア
マリアは唯の女人だつた。が、或夜聖霊に感じて忽ちクリストを生み落した。我々はあらゆる女人の中に多少のマリアを感じるであらう。同時に又あらゆる男子の中にも――。いや、我々は炉に燃える火や畠の野菜や素焼きの瓶や巌畳に出来た腰かけの中にも多少のマリアを感じるであらう。マリアは「永遠に女性なるもの」ではない。唯「永遠に守らんとするもの」である。クリストの母、マリアの一生もやはり「涙の谷」の中に通つてゐた。が、マリアは忍耐を重ねてこの一生を歩いて行つた。世間智と愚と美徳とは彼女の一生の中に一つに住んでゐる。ニイチエの叛逆はクリストに対するよりもマリアに対する叛逆だつた。
3 聖霊
我々は風や旗の中にも多少の聖霊を感じるであらう。聖霊は必ずしも「聖なるもの」ではない。唯「永遠に超えんとするもの」である。ゲエテはいつも聖霊に Daemon の名を与へてゐた。のみならずいつもこの聖霊に捉はれないやうに警戒してゐた。が、聖霊の子供たちは――あらゆるクリストたちは聖霊の為にいつか捉はれる危険を持つてゐる。聖霊は悪魔や天使ではない。勿論、神とも異るものである。我我は時々善悪の彼岸に聖霊の歩いてゐるのを見るであらう。善悪の彼岸に、――しかしロムブロゾオは幸か不幸か精神病者の脳髄の上に聖霊の歩いてゐるのを発見してゐた。
4 ヨセフ
クリストの父、大工のヨセフは実はマリア自身だつた。彼のマリアほど尊まれないのはかう云ふ事実にもとづいてゐる。ヨセフはどう贔屓目に見ても、畢竟余計ものの第一人だつた。
5 エリザベツ
マリアはエリザベツの友だちだつた。バプテズマのヨハネを生んだものはこのザカリアベの妻、エリザベツである。麦の中に芥子の花の咲いたのは畢に偶然と云ふ外はない。我々の一生を支配する力はやはりそこにも動いてゐるのである。
6 羊飼ひたち
マリアの聖霊に感じて孕んだことは羊飼ひたちを騒がせるほど、醜聞だつたことは確かである。クリストの母、美しいマリアはこの時から人間苦の途に上り出した。
7 博士たち
東の国の博士たちはクリストの星の現はれたのを見、黄金や乳香や没薬を宝の盒に入れて捧げて行つた。が、彼等は博士たちの中でも僅かに二人か三人だつた。他の博士たちはクリストの星の現はれたことに気づかなかつた。のみならず気づいた博士たちの一人は高い台の上に佇みながら、(彼は誰よりも年よりだつた。)きららかにかかつた星を見上げ、はるかにクリストを憐んでゐた。
「又か!」
8 へロデ
ヘロデは或大きい機械だつた。かう云ふ機械は暴力により、多少の手数を省く為にいつも我々には必要である。彼はクリストを恐れる為にベツレヘムの幼な児を皆殺しにした。勿論クリスト以外のクリストも彼等の中にはまじつてゐたであらう。ヘロデの両手は彼等の血の為にまつ赤になつてゐたかも知れない。我々は恐らくこの両手の前に不快を感じずにはゐられないであらう。しかしそれは何世紀か前のギロテインに対する不快である。我々はヘロデを憎むことは勿論、軽蔑することも出来るものではない。いや、寧ろ彼の為に憐みを感じるばかりである。ヘロデはいつも玉座の上に憂欝な顔をまともにしたまま、橄欖や無花果の中にあるベツレヘムの国を見おろしてゐる。一行の詩さへ残したこともなしに。……
9 ボヘミア的精神
幼いクリストはエヂプトへ行つたり、更に又「ガリラヤのうちに避け、ナザレと云へる邑」に止まつたりしてゐる。我々はかう云ふ幼な児を佐世保や横須賀に転任する海軍将校の家庭にも見出すであらう。クリストのボヘミア的精神は彼自身の性格の前にかう云ふ境遇にも潜んでゐたかも知れない。
10[#「10」は縦中横] 父
クリストはナザレに住んだ後、ヨセフの子供でないことを知つたであらう。或は聖霊の子供であることを、――しかしそれは前者よりも決して重大な事件ではない。「人の子」クリストはこの時から正に二度目の誕生をした。「女中の子」ストリントベリイはまづ彼の家族に反叛した。それは彼の不幸であり、同時に又彼の幸福だつた。クリストも恐らくは同じことだつたであらう。彼はかう云ふ孤独の中に仕合せにも彼の前に生まれたクリスト――バプテズマのヨハネに遭遇した。我々は我々自身の中にもヨハネに会ふ前のクリストの心の陰影を感じてゐる。ヨハネは野蜜や蝗を食ひ、荒野の中に住まつてゐた。が、彼の住まつてゐた荒野は必しも日の光のないものではなかつた。少くともクリスト自身の中にあつた、薄暗い荒野に比べて見れば……。
11[#「11」は縦中横] ヨハネ
バプテズマのヨハネはロマン主義を理解出来ないクリストだつた。彼の威厳は荒金のやうにそこにかがやかに残つてゐる。彼のクリストに及ばなかつたのも恐らくはその事実に存するであらう。クリストに洗礼を授けたヨハネはの木のやうに逞しかつた。しかし獄中にはひつたヨハネはもう枝や葉に漲つてゐるの木の力を失つてゐた。彼の最後の慟哭はクリストの最後の慟哭のやうにいつも我々を動かすのである。――
「クリストはお前だつたか、わたしだつたか?」
ヨハネの最後の慟哭は――いや、必しも慟哭ばかりではない。太いの木は枯かかつたものの、未だに外見だけは枝を張つてゐる。若しこの気力さへなかつたとしたならば、二十何歳かのクリストは決して冷かにかう言はなかつたであらう。
「わたしの現にしてゐることをヨハネに話して聞かせるが善い。」
12[#「12」は縦中横] 悪魔
クリストは四十日の断食をした後、目のあたりに悪魔と問答した。我々も悪魔と問答をする為には何等かの断食を必要としてゐる。我々の或ものはこの問答の中に悪魔の誘惑に負けるであらう。又或ものは誘惑に負けずに我々自身を守るであらう。しかし我々は一生を通じて悪魔と問答をしないこともあるのである。クリストは第一にパンを斥けた。が、「パンのみでは生きられない」と云ふ註釈を施すのを忘れなかつた。それから彼自身の力を恃めと云ふ悪魔の理想主義者的忠告を斥けた。しかし又「主たる汝の神を試みてはならぬ」と云ふ弁証法を用意してゐた。最後に「世界の国々とその栄華と」を斥けた。それはパンを斥けたのと或は同じことのやうに見えるであらう。しかしパンを斥けたのは現実的欲望を斥けたのに過ぎない。クリストはこの第三の答の中に我々自身の中に絶えることのない、あらゆる地上の夢を斥けたのである。この論理以上の論理的決闘はクリストの勝利に違ひなかつた。ヤコブの天使と組み合つたのも恐らくはかう云ふ決闘だつたであらう。悪魔は畢にクリストの前に頭を垂れるより外はなかつた。けれども彼のマリアと云ふ女人の子供であることは忘れなかつた。この悪魔との問答はいつか重大な意味を与へられてゐる。が、クリストの一生では必しも大事件と云ふことは出来ない。彼は彼の一生の中に何度も「サタンよ、退け」と言つた。現に彼の伝記作者の一人、――ルカはこの事件を記した後、「悪魔この試み皆畢りて暫く彼を離れたり」とつけ加へてゐる。
13[#「13」は縦中横] 最初の弟子たち
クリストは僅かに十二歳の時に彼の天才を示してゐる。が、洗礼を受けた後も誰も弟子になるものはなかつた。村から村を歩いてゐた彼は定めし寂しさを感じたであらう。けれどもとうとう四人の弟子たちは――しかも四人の漁師たちは彼の左右に従ふことになつた。彼等に対するクリストの愛は彼の一生を貫いてゐる。彼は彼等に囲まれながら、見る見る鋭い舌に富んだ古代のジヤアナリストになつて行つた。
14[#「14」は縦中横] 聖霊の子供
クリストは古代のジヤアナリストになつた。同時に又古代のボヘミアンになつた。彼の天才は飛躍をつづけ、彼の生活は一時代の社会的約束を踏みにじつた。彼を理解しない弟子たちの中に時々ヒステリイを起しながら。――しかしそれは彼自身には大体歓喜に満ち渡つてゐた。クリストは彼の詩の中にどの位情熱を感じてゐたであらう。「山上の教へ」は二十何歳かの彼の感激に満ちた産物である。彼はどう云ふ前人も彼に若かないのを感じてゐた。この海のやうに高まつた彼の天才的ジヤアナリズムは勿論敵を招いたであらう。が、彼等はクリストを恐れない訣には行かなかつた。それは実に彼等には――クリストよりも人生を知り、従つて又人生に対する恐怖を抱いてゐる彼等にはこの天才の量見の呑みこめない為に外ならなかつた。
15[#「15」は縦中横] 女人
大勢の女人たちはクリストを愛した。就中マグダラのマリアなどは、一度彼に会つた為に七つの悪鬼に攻められるのを忘れ、彼女の職業を超越した詩的恋愛さへ感じ出した。クリストの命の終つた後、彼女のまつ先に彼を見たのはかう云ふ恋愛の力である。クリストも亦大勢の女人たちを、――就中マグダラのマリアを愛した。彼等の詩的恋愛は未だに燕子花のやうに匂やかである。クリストは度たび彼女を見ることに彼の寂しさを慰めたであらう。後代は、――或は後代の男子たちは彼等の詩的恋愛に冷淡だつた。(尤も芸術的主題以外には)しかし後代の女人たちはいつもこのマリアを嫉妬してゐた。
「なぜクリスト様は誰よりも先にお母さんのマリア様に再生をお示しにならなかつたのかしら?」
それは彼女等の洩らして来た、最も偽善的な歎息だつた。
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