五 まりも美しとなげく男
平中は独り寂しさうに、本院の侍従の局に近い、人気のない廊下に佇んでゐる。その廊下の欄にさした、油のやうな日の色を見ても、又今日は暑さが加はるらしい。が、庇の外の空には、簇々と緑を抽いた松が、静かに涼しさを守つてゐる。 「侍従はおれを相手にしない。おれももう侍従は思ひ切つた。――」 平中は蒼白い顔をした儘、ぼんやりこんな事を思つてゐる。 「しかしいくら思ひ切つても、侍従の姿は幻のやうに、必ず眼前に浮んで来る。おれは何時かの雨夜以来、唯この姿を忘れたいばかりに、どの位四方の神仏へ、祈願を凝らしたかわからない。が、加茂の御社へ行けば、御鏡の中にありありと、侍従の顔が映つて見える。清水の御寺の内陣にはひれば、観世音菩薩の御姿さへ、その儘侍従に変つてしまふ。もしこの姿が何時までも、おれの心を立ち去らなければ、おれはきつと焦れ死に、死んでしまふのに相違ない。――」 平中は長い息をついた。 「だがその姿を忘れるには、――たつた一つしか手段はない。それは何でもあの女の浅間しい所を見つける事だ。侍従もまさか天人ではなし、不浄もいろいろ蔵してゐるだらう。其処を一つ見つけさへすれば、丁度女房に化けた狐が、尾のある事を知られたやうに、侍従の幻も崩れてしまふ。おれの命はその刹那に、やつとおれのものになるのだ。が、何処が浅間しいか、何処が不浄を蔵してゐるか、それは誰も教へてくれない。ああ、大慈大悲の観世音菩薩、どうか其処を御示し下さい、侍従は河原の女乞食と、実は少しも変らない証拠を。……」 平中はかう考へながら、ふと懶い視線を挙げた。 「おや、あすこへ来かかつたのは、侍従の局の女の童ではないか?」 あの利口さうな女の童は、撫子重ねの薄物の袙に、色の濃い袴を引きながら、丁度こちらへ歩いて来る。それが赤紙の画扇の陰に、何か筐を隠してゐるのは、きつと侍従のした糞を捨てに行く所に相違ない。その姿を一目見ると、突然平中の心の中には、或大胆な決心が、稲妻のやうに閃き渡つた。 平中は眼の色を変へたなり、女の童の行く手に立ち塞がつた。そしてその筐をひつたくるや否や、廊下の向ふに一つ見える、人のゐない部屋へ飛んで行つた。不意を打たれた女の童は、勿論泣き声を出しながら、ばたばた彼を追ひかけて来る。が、その部屋へ躍りこむと、平中は、遣戸を立て切るが早いか、手早く懸け金を下してしまつた。 「さうだ。この中を見れば間違ひない。百年の恋も一瞬の間に、煙よりもはかなく消えてしまふ。……」 平中はわなわな震へる手に、ふはりと筐の上へかけた、香染の薄物を掲げて見た。筐は意外にも精巧を極めた、まだ真新しい蒔絵である。 「この中に侍従の糞がある。同時におれの命もある。……」 平中は其処に佇んだ儘、ぢつと美しい筐を眺めた。局の外には忍び忍びに、女の童の泣き声が続いてゐる。が、それは何時の間にか、重苦しい沈黙に呑まれてしまふ。と思ふと遣戸や障子も、だんだん霧のやうに消え始める。いや、もう今では昼か夜か、それさへ平中には判然しない。唯彼の眼の前には、時鳥を描いた筐が一つ、はつきり空中に浮き出してゐる。…… 「おれの命の助かるのも、侍従と一生の別れをするのも、皆この筐に懸つてゐる。この筐の蓋を取りさへすれば、――いや、それは考へものだぞ。侍従を忘れてしまふのが好いか、甲斐のない命を長らへるのが好いか、おれにはどちらとも返答出来ない。たとひ焦がれ死をするにもせよ、この筐の蓋だけは取らずに置かうか?……」 平中は窶れた頬の上に、涙の痕を光らせながら、今更のやうに思ひ惑つた。しかし少時沈吟した後、急に眼を輝かせると、今度はかう心の中に一生懸命の叫声を挙げた。 「平中! 平中! お前は何と云ふ意気地なしだ? あの雨夜を忘れたのか? 侍従は今もお前の恋を嘲笑つてゐるかも知れないのだぞ。生きろ! 立派に生きて見せろ! 侍従の糞を見さへすれば、必お前は勝ち誇れるのだ。……」 平中は殆気違ひのやうに、とうとう筐の蓋を取つた。筐には薄い香色の水が、たつぷり半分程はひつた中に、これは濃い香色の物が、二つ三つ底へ沈んでゐる。と思ふと夢のやうに、丁子の匂が鼻を打つた。これが侍従の糞であらうか? いや、吉祥天女にしてもこんな糞はする筈がない。平中は眉をひそめながら、一番上に浮いてゐた、二寸程の物をつまみ上げた。さうして髭にも触れる位、何度も匂を嗅ぎ直して見た。匂は確かに紛れもない、飛び切りの沈の匂である。 「これはどうだ! この水もやはり匂ふやうだが、――」 平中は筐を傾けながら、そつと水を啜つて見た。水も丁子を煮返した、上澄みの汁に相違ない。 「するとこいつも香木かな?」 平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にも透る位、苦味の交つた甘さがある。その上彼の口の中には、急ち橘の花よりも涼しい、微妙な匂が一ぱいになつた。侍従は何処から推量したか、平中のたくみを破る為に、香細工の糞をつくつたのである。 「侍従! お前は平中を殺したぞ!」 平中はかう呻きながら、ばたりと蒔絵の筐を落した。さうして其処の床の上へ、仏倒しに倒れてしまつた。その半死の瞳の中には、紫摩金の円光にとりまかれた儘、※然[#「女+展」、180-下-14]と彼にほほ笑みかけた侍従の姿を浮べながら。……
(大正十年九月)
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