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好色(こうしょく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 16:46:16  点击:  切换到繁體中文



     二 桜

 平中は柱によりかかりながら、漫然と桜を眺めてゐる。近々と軒に迫つた桜は、もう盛りが過ぎたらしい。そのやや赤みのせた花には、永い昼過ぎの日の光が、さしかはした枝の向き向きに、複雑な影を投げ合つてゐる。が、平中の眼は桜にあつても、平中の心は桜にない。彼はさつきから漫然と、侍従じじゆうの事を考へてゐる。
「始めて侍従を見かけたのは、――」
 平中はかう思ひ続けた。
「始めて侍従を見かけたのは、――あれは何時いつの事だつたかな? さうさう、何でも稲荷詣いなりまうでに出かけると云つてゐたのだから、初午はつうまの朝だつたのに違ひない。あの女が車へ乗らうとする、おれが其処へ通りかかる、――と云ふのが抑々そもそもの起りだつた。顔は扇をかざした陰にちらりと見えただけだつたが、紅梅や萌黄もえぎを重ねた上へ、紫のうちぎをひつかけてゐる、――その容子ようすが何とも云へなかつた。おまけに※(「車+非」、第4水準2-89-66)はこへはひる所だから、片手に袴をつかんだまま、心もち腰をかがめ加減にした、――その又恰好もたまらなかつたつけ。本院の大臣おとど御屋形おんやかたには、ずゐぶん女房も沢山ゐるが、まづあの位なのは一人もないな。あれなら平中がれたと云つても、――」
 平中はちよいと真顔まがほになつた。
「だが本当に惚れてゐるかしら? 惚れてゐると云へば、惚れてゐるやうでもあるし、惚れてゐないと云へば、惚れて、――一体こんな事は考へてゐると、だんだんわからなくなるものだが、まあ一通りは惚れてゐるな。尤もおれの事だから、いくら侍従に惚れたと云つても、眼さきまでくらんでしまひはしない。何時かあの範実のりざねのやつと、侍従のうはさをしてゐたら、うらむらくは髪が薄すぎると、聞いた風な事を云つたつけ、あんな事は一目見た時にもうちやんと気がついてゐたのだ。範実のりざねなどと云ふ男は、篳篥ひちりきこそちつとは吹けるだらうが、好色かうしよくの話となつた日には、――まあ、あいつはあいつとして置け。差向きおれが考へたいのは、侍従一人の事なのだから、――所でもう少し欲を云へば、顔もあれぢや寂しすぎるな。それも寂しすぎると云ふだけなら、何処どこか古い画巻ゑまきじみた、上品な所がある筈だが、寂しい癖に薄情らしい、妙に落着いた所があるのは、どう考へても頼もしくない。女でもああ云ふ顔をしたのは、存外人を食つてゐるものだ。その上色も白い方ぢやない、浅黒いとまでは行かなくつても、琥珀色こはくいろ位な所はあるな。しかし何時見てもあの女は、何だかかう水際みづぎは立つた、ふるひつきたいやうな風をしてゐる。あれは確かにどの女も、真似の出来ない芸当だらう。……」
 平中は袴の膝を立てながら、うつとりと軒の空を見上げた。空はむらがつた花の間に、薄青い色をなごませてゐる。
「それにしてもこの間から、いくらふみを持たせてやつても、返事一つよこさないのは、剛情にも程があるぢやないか? まあおれが文をつけた女は、大抵は三度目になびいてしまふ。たまに堅い女があつても、五度と文をやつた事はない。あの恵眼ゑげんと云ふ仏師の娘なぞは、一首の歌だけに落ちたものだ。それもおれの作つた歌ぢやない。誰かが、さうさう、――義輔よしすけが作つた歌だつけ。義輔はその歌を書いてやつても、とんと先方の青女房には相手にされなかつたとか云ふ話だが、同じ歌でもおれが書けば――尤も侍従はおれが書いても、やつぱり返事はくれなかつたから、あんまり自慢は出来ないかも知れない。しかし兎に角おれの文には必ず女の返事が来る、返事が来れば逢ふ事になる。逢ふ事になれば大騒ぎをされる。大騒ぎをされれば――ぢきに又それが鼻についてしまふ。かうまあ相場がきまつてゐたものだ。所が侍従には一月ばかりに、ざつと二十通も文を書いたが、何とも便りがないのだからな。おれの艶書えんしよの文体にしても、さう無際限にある訳ぢやなし、そろそろもう跡が続かなくなつた。だが今日やつた文の中には、『せめては唯見つとばかりの、二文字ふたもじだに見せ給へ』と書いてやつたから、何とか今度こそ返事があるだらう。ないかな? もし今日も亦ないとすれば、――ああ、ああ、おれもついこの間までは、こんな事に気骨を折る程、意気地のない人間ぢやなかつたのだがな。何でも豊楽院ぶらくゐんの古狐は、女に化けると云ふ事だが、きつとあの狐に化かされたのは、こんな気がするのに違ひない。同じ狐でも奈良坂の狐は、三抱みかかへもあらうと云ふ杉の木に化ける。嵯峨の狐は牛車ぎつしやに化ける。高陽川かやがはの狐はわらはに化ける。桃薗ももぞのの狐は大池に化け――狐の事なぞはどうでもい。ええと、何を考へてゐたのだつけ?」
 平中は空を見上げた儘、そつと欠伸あくび噛殺かみころした。花にうづまつた軒先からは、傾きかけた日の光の中に、時々白いものが飜つて来る。何処かに鳩も啼いてゐるらしい。
「兎に角あの女には根負こんまけがする。たとひ逢ふと云はないまでも、おれと一度話さへすれば、きつと手に入れて見せるのだがな。まして一晩逢ひでもすれば、――あの摂津せつつでも小中将こちゆうじやうでも、まだおれを知らない内は、男嫌ひで通してゐたものだ。それがおれの手にかかると、あの通り好きものになるぢやないか? 侍従にした所が金仏かなぼとけぢやなし、有頂天にならない筈はあるまい。しかしあの女はいざとなつても、小中将のやうには恥しがるまいな。と云つて又摂津のやうに、妙にとりすます柄でもあるまい。きつと袖を口へやると、眼だけにつこり笑ひながら、――」
「殿様。」
「どうせ夜の事だから、切り燈台か何かがともつてゐる。その火の光があの女の髪へ、――」
「殿様。」
 平中はややあわてたやうに、烏帽子ゑぼしの頭を後へ向けた。後には何時いつわらべが一人、ぢつと伏し眼になりながら、一通のふみをさし出してゐる。何でもこれは一心に、笑ふのをこらへてゐたものらしい。
消息せうそこか?」
「はい、侍従様から、――」
 童はかう云ひ終ると、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそう主人の前をさがつた。
「侍従様から? 本当かしら?」
 平中はほとんど恐る恐る、青い薄葉うすえふの文を開いた。
「範実や義輔の悪戯いたづらぢやないか? あいつ等はみんなこんな事が、何よりも好きな閑人ひまじんだから、――おや、これは侍従の文だ。侍従の文には違ひないが、――この文は、これは、何と云ふ文だい?」
 平中は文をはふり出した。文には「唯見つとばかりの、二文字ふたもじだに見せ給へ」と書いてやつた、その「見つ」と云ふ二文字だけが、――しかも平中の送つた文から、この二文字だけ切り抜いたのが、薄葉に貼りつけてあつたのである。
「ああ、ああ、あめしたの色好みとか云はれるおれも、この位莫迦ばかにされれば世話はないな。それにしても侍従と云ふやつは、小面こづらの憎い女ぢやないか? 今にどうするか覚えてゐろよ。……」
 平中は膝を抱へた儘、茫然と桜の梢を見上げた。青い薄葉の飜つた上には、もう風に吹かれた落花が、点々と幾ひらもこぼれてゐる。……

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