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玄鶴山房(げんかくさんぼう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 16:27:48  点击:  切换到繁體中文



   五

 玄鶴はだんだん衰弱して行った。彼の永年の病苦は勿論もちろん、彼の背中から腰へかけた床ずれの痛みもはげしかった。彼は時々うなごえを挙げ、わずかに苦しみをまぎらせていた。しかし彼を悩ませたものは必しも肉体的苦痛ばかりではなかった。彼はお芳の泊っている間は多少の慰めを受けた代りにお鳥の嫉妬しっとや子供たちの喧嘩けんかにしっきりない苦しみを感じていた。けれどもそれはまだ善かった。玄鶴はお芳の去った後は恐しい孤独を感じた上、長い彼の一生と向い合わないわけには行かなかった。
 玄鶴の一生はこう云う彼には如何にも浅ましい一生だった。成程ゴム印の特許を受けた当座は比較的彼の一生でも明るい時代には違いなかった。しかしそこにも儕輩さいはいの嫉妬や彼の利益を失うまいとする彼自身の焦燥の念は絶えず彼を苦しめていた。ましてお芳を囲い出した後は、――彼は家庭のいざこざの外にも彼等の知らない金の工面にいつも重荷を背負いつづけだった。しかも更に浅ましいことには年の若いお芳にかれていたものの、少くともこの一二年は何度内心にお芳親子を死んでしまえと思ったか知れなかった。
「浅ましい?――しかしそれも考えて見れば、格別わしだけに限ったことではない。」
 彼は夜などはこう考え、彼の親戚しんせきや知人のことを一々細かに思い出したりした。彼の婿の父親はただ「憲政を擁護する為に」彼よりも腕の利かない敵を何人も社会的に殺していた。それから彼に一番親しい或年輩の骨董屋こっとうやは先妻の娘に通じていた。それから或弁護士は供託金を費消していた。それから或篆刻家てんこくかは、――しかし彼等の犯した罪は不思議にも彼の苦しみには何の変化も与えなかった。のみならず逆に生そのものにも暗い影をひろげるばかりだった。
「何、この苦しみも長いことはない。お目出度くなってしまいさえすれば………」
 これは玄鶴にも残っていたたった一つの慰めだった。彼は心身に食いこんで来るいろいろの苦しみを紛らす為に楽しい記憶を思い起そうとした。けれども彼の一生は前にも言ったように浅ましかった。しそこに少しでも明るい一面があるとすれば、それは唯何も知らない幼年時代の記憶だけだった。彼は度たび夢うつつの間に彼の両親の住んでいた信州の或山峡の村を、――殊に石を置いた板葺いたぶき屋根や蚕臭かいこくさい桑ボヤを思い出した。が、その記憶もつづかなかった。彼は時々唸り声の間に観音経を唱えて見たり、昔のはやり歌をうたって見たりした。しかも「妙音観世音みょうおんかんぜおん梵音海潮音ぼんおんかいちょうおん勝彼世間音しょうひせけんおん」を唱えた後、「かっぽれ、かっぽれ」をうたうことは滑稽こっけいにも彼には勿体もったいない気がした。
「寝るが極楽。寝るが極楽………」
 玄鶴は何も彼も忘れる為に唯ぐっすり眠りたかった。実際又甲野は彼の為に催眠薬を与える外にもヘロインなどを注射していた。けれども彼には眠りさえいつも安らかには限らなかった。彼は時々夢の中にお芳や文太郎に出合ったりした。それは彼には、――夢の中の彼には明るい心もちのするものだった。(彼は或夜の夢の中にはまだ新しい花札の「桜の二十」と話していた。しかもその又「桜の二十」は四五年前のお芳の顔をしていた。)しかしそれだけに目のめた後は一層彼を見じめにした。玄鶴はいつか眠ることにも恐怖に近い不安を感ずるようになった。
 大晦日おおみそかもそろそろ近づいた或午後、玄鶴は仰向あおむけに横たわったなり、まくらもとの甲野へ声をかけた。
「甲野さん、わしはな、久しくふんどしをしめたことがないから、さら木綿もめんを六尺買わせて下さい。」
 晒し木綿を手に入れることはわざわざ近所の呉服屋へお松を買いにやるまでもなかった。
「しめるのはわしが自分でしめます。ここへ畳んで置いて行って下さい。」
 玄鶴はこの褌を便りに、――この褌にくびれ死ぬことを便りにやっと短い半日を暮した。しかし床の上に起き直ることさえ人手を借りなければならぬ彼には容易にその機会も得られなかった。のみならず死はいざとなって見ると、玄鶴にもやはり恐しかった。彼は薄暗い電灯の光に黄檗おうばくの一行ものを眺めたまま、未だ生をむさぼらずにはいられぬ彼自身をあざけったりした。
「甲野さん、ちょっと起して下さい。」
 それはもう夜の十時頃だった。
「わしはな、これからひと眠りします。あなたも御遠慮なくお休みなすって下さい。」
 甲野は妙に玄鶴を見つめ、こう素っ気ない返事をした。
「いえ、わたくしは起きております。これがわたくしの勤めでございますから。」
 玄鶴は彼の計画も甲野の為に看破みやぶられたのを感じた。が、ちょっとうなずいたぎり、何も言わずに狸寝入たぬきねいりをした。甲野は彼の枕もとに婦人雑誌の新年号をひろげ、何か読みけっているらしかった。玄鶴はやはり蒲団ふとんの側の褌のことを考えながら、薄目うすめに甲野を見守っていた。すると――急に可笑おかしさを感じた。
「甲野さん。」
 甲野も玄鶴の顔を見た時はさすがにぎょっとしたらしかった。玄鶴は夜着によりかかったまま、いつかとめどなしに笑っていた。
「なんでございます?」
「いや、何でもない。何にも可笑しいことはありません。――」
 玄鶴はまだ笑いながら、細い右手を振って見せたりした。
「今度は………なぜかこう可笑しゅうなってな。………今度はどうか横にして下さい。」
 一時間ばかりたった後、玄鶴はいつか眠っていた。その晩は夢も恐しかった。彼は樹木の茂った中に立ち、腰の高い障子のすきから茶室めいた部屋をのぞいていた。そこには又まる裸の子供が一人、こちらへ顔を向けて横になっていた。それは子供とは云うものの、老人のようにしわくちゃだった。玄鶴は声を挙げようとし、寝汗だらけになって目を醒ました。…………
「離れ」には誰も来ていなかった。のみならずまだ薄暗かった。まだ?――しかし玄鶴は置き時計を見、彼是かれこれ正午に近いことを知った。彼の心は一瞬間、ほっとしただけに明るかった。けれども又いつものようにたちま陰欝いんうつになって行った。彼は仰向けになったまま、彼自身の呼吸を数えていた。それは丁度何ものかに「今だぞ」とせかれている気もちだった。玄鶴はそっと褌を引き寄せ、彼の頭に巻きつけると、両手にぐっと引っぱるようにした。
 そこへ丁度顔を出したのはまるまると着膨きぶくれた武夫だった。
「やあ、お爺さんがあんなことをしていらあ。」
 武夫はこうはやしながら、一散に茶の間へ走って行った。

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