五
しかし、銭湯を出た時の馬琴の気分は、沈んでいた。眇の毒舌は、少なくともこれだけの範囲で、確かに予期した成功を収め得たのである。彼は秋晴れの江戸の町を歩きながら、風呂の中で聞いた悪評を、いちいち彼の批評眼にかけて、綿密に点検した。そうして、それが、いかなる点から考えてみても、一顧の価のない愚論だという事実を、即座に証明することが出来た。が、それにもかかわらず、一度乱された彼の気分は、容易に元通り、落ち着きそうもない。
彼は不快な眼をあげて、両側の町家を眺めた。町家のものは、彼の気分とは没交渉に、皆その日の生計を励んでいる。だから「諸国銘葉」の柿色の暖簾、「本黄楊」の黄いろい櫛形の招牌、「駕籠」の掛行燈、「卜筮」の算木の旗、――そういうものが、無意味な一列を作って、ただ雑然と彼の眼底を通りすぎた。
「どうして己は、己の軽蔑している悪評に、こう煩わされるのだろう。」
馬琴はまた、考えつづけた。
「己を不快にするのは、第一にあの眇が己に悪意を持っているという事実だ。人に悪意を持たれるということは、その理由のいかんにかかわらず、それだけで己には不快なのだから、しかたがない。」
彼は、こう思って、自分の気の弱いのを恥じた。実際彼のごとく傍若無人な態度に出る人間が少なかったように、彼のごとく他人の悪意に対して、敏感な人間もまた少なかったのである。そうして、この行為の上では全く反対に思われる二つの結果が、実は同じ原因――同じ神経作用から来ているという事実にも、もちろん彼はとうから気がついていた。
「しかし、己を不快にするものは、まだほかにもある。それは己があの眇と、対抗するような位置に置かれたということだ。己は昔からそういう位置に身を置くことを好まない。勝負事をやらないのも、そのためだ。」
ここまで分析して来た彼の頭は、さらに一歩を進めると同時に、思いもよらない変化を、気分の上に起させた。それはかたくむすんでいた彼の唇が、この時急にゆるんだのを見ても、知れることであろう。
「最後に、そういう位置へ己を置いた相手が、あの眇だという事実も、確かに己を不快にしている。もしあれがもう少し高等な相手だったら、己はこの不快を反※[#「てへん+発」、129-上段-3]するだけの、反抗心を起していたのに相違ない。何にしても、あの眇が相手では、いくら己でも閉口するはずだ。」
馬琴は苦笑しながら、高い空を仰いだ。その空からは、朗かな鳶の声が、日の光とともに、雨のごとく落ちて来る。彼は今まで沈んでいた気分が次第に軽くなって来ることを意識した。
「しかし、眇がどんな悪評を立てようとも、それは精々、己を不快にさせるくらいだ。いくら鳶が鳴いたからといって、天日の歩みが止まるものではない。己の八犬伝は必ず完成するだろう。そうしてその時は、日本が古今に比倫のない大伝奇を持つ時だ。」
彼は恢復した自信をいたわりながら、細い小路を静かに家の方へ曲って行った。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >> 尾页