二
「どういたしまして、いっこう結構じゃございません。結構と言や、先生、八犬伝はいよいよ出でて、いよいよ奇なり、結構なお出来でございますな。」
細銀杏は肩の手拭を桶の中へ入れながら、一調子張り上げて弁じ出した。
「船虫が瞽婦に身をやつして、小文吾を殺そうとする。それがいったんつかまって拷問されたあげくに、荘介に助けられる。あの段どりが実になんとも申されません。そうしてそれがまた、荘介小文吾再会の機縁になるのでございますからな。不肖じゃございますが、この近江屋平吉も、小間物屋こそいたしておりますが、読本にかけちゃひとかど通のつもりでございます。その手前でさえ、先生の八犬伝には、なんとも批の打ちようがございません。いや全く恐れ入りました。」
馬琴は黙ってまた、足を洗い出した。彼はもちろん彼の著作の愛読者に対しては、昔からそれ相当な好意を持っている。しかしその好意のために、相手の人物に対する評価が、変化するなどということは少しもない。これは聡明な彼にとって、当然すぎるほど当然なことである、が、不思議なことには逆にその評価が彼の好意に影響するということもまたほとんどない。だから彼は場合によって、軽蔑と好意とを、まったく同一人に対して同時に感ずることが出来た。この近江屋平吉のごときは、まさにそういう愛読者の一人である。
「なにしろあれだけのものをお書きになるんじゃ、並大抵なお骨折りじゃございますまい。まず当今では、先生がさしずめ日本の羅貫中というところでございますな――いや、これはとんだ失礼を申し上げました。」
平吉はまた大きな声をあげて笑った。その声に驚かされたのであろう。側で湯を浴びていた小柄な、色の黒い、眇の小銀杏が、振り返って平吉と馬琴とを見比べると、妙な顔をして流しへ痰を吐いた。
「貴公は相変らず発句にお凝りかね。」
馬琴は巧みに話頭を転換した。がこれは何も眇の表情を気にしたわけではない。彼の視力は幸福なことに(?)もうそれがはっきりとは見えないほど、衰弱していたのである。
「これはお尋ねにあずかって恐縮至極でございますな。手前のはほんの下手の横好きで今日も運座、明日も運座、と、所々方々へ臆面もなくしゃしゃり出ますが、どういうものか、句の方はいっこう頭を出してくれません。時に先生は、いかがでございますな、歌とか発句とか申すものは、格別お好みになりませんか。」
「いや私は、どうもああいうものにかけると、とんと無器用でね。もっとも一時はやったこともあるが。」
「そりゃ御冗談で。」
「いや、まったく性に合わないと見えて、いまだにとんと眼くらの垣覗きさ。」
馬琴は、「性に合わない」という語に、ことに力を入れてこう言った。彼は歌や発句が作れないとは思っていない。だからもちろんその方面の理解にも、乏しくないという自信がある。が、彼はそういう種類の芸術には、昔から一種の軽蔑を持っていた。なぜかというと、歌にしても、発句にしても、彼の全部をその中に注ぎこむためには、あまりに形式が小さすぎる。だからいかに巧みに詠みこなしてあっても、一句一首のうちに表現されたものは、抒情なり叙景なり、わずかに彼の作品の何行かを充すだけの資格しかない。そういう芸術は、彼にとって、第二流の芸術である。
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