三
彼が「性に合はない」と云ふ語に力を入れた後には、かう云ふ軽蔑が潜んでゐた。が、不幸にして近江屋平吉には、全然さう云ふ意味が通じなかつたものらしい。
「ははあ、やつぱりさう云ふものでございますかな。手前などの量見では、先生のやうな大家なら、何でも自由にお作りになれるだらうと存じて居りましたが――いや、天二物を与へずとは、よく申したものでございます。」
平吉はしぼつた手拭で、皮膚が赤くなる程、ごしごし体をこすりながら、稍遠慮するやうな調子で、かう云つた。が、自尊心の強い馬琴には、彼の謙辞をその儘語通り受取られたと云ふ事が、先づ何よりも不満である。その上平吉の遠慮するやうな調子が愈又気に入らない。そこで彼は手拭と垢すりとを流しへ抛り出すと半ば身を起しながら、苦い顔をして、こんな気焔をあげた。
「尤も、当節の歌よみや宗匠位には行くつもりだがね。」
しかし、かう云ふと共に、彼は急に自分の子供らしい自尊心が恥づかしく感ぜられた。自分はさつき平吉が、最上級の語を使つて八犬伝を褒めた時にも、格別嬉しかつたとは思つてゐない。さうして見れば、今その反対に、自分が歌や発句を作る事の出来ない人間と見られたにしても、それを不満に思ふのは、明に矛盾である。咄嗟にかう云ふ自省を動かした彼は、恰も内心の赤面を隠さうとするやうに、慌しく止め桶の湯を肩から浴びた。
「でございませう。さうなくつちや、とてもああ云ふ傑作は、お出来になりますまい。して見ますと、先生は歌も発句もお作りになると、かう睨んだ手前の眼光は、やつぱり大したものでございますな。これはとんだ手前味噌になりました。」
平吉は又大きな声を立てて、笑つた。さつきの眇はもう側にゐない。痰も馬琴の浴びた湯に、流されてしまつた。が、馬琴がさつきにも増して恐縮したのは勿論の事である。
「いや、うつかり話しこんでしまつた。どれ私も一風呂、浴びて来ようか。」
妙に間の悪くなつた彼は、かう云ふ挨拶と共に、自分に対する一種の腹立しさを感じながら、とうとうこの好人物の愛読者の前を退却すべく、徐に立上つた。が、平吉は彼の気焔によつて寧ろ愛読者たる彼自身まで、肩身が広くなつたやうに、感じたらしい。
「では先生その中に一つ歌か発句かを書いて頂きたいものでございますな。よろしうございますか。お忘れになつちやいけませんぜ。ぢや手前も、これで失礼致しませう。お忙しうもございませうが、お通りすがりの節は、ちと御立ち寄りを。手前も亦、お邪魔に上ります。」
平吉は追ひかけるやうに、かう云つた。さうして、もう一度手拭を洗ひ出しながら、柘榴口の方へ歩いて行く馬琴の後姿を見送つて、これから家へ帰つた時に、曲亭先生に遇つたと云ふ事を、どんな調子で女房に話して聞かせようかと考へた。
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