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戯作三昧(げさくざんまい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 16:12:47  点击:  切换到繁體中文



       十五

 その夜の事である。
 馬琴は薄暗い円行燈まるあんどうの光の下で、八犬伝の稿をつぎ始めた。執筆中は家内のものも、この書斎へははいつて来ない。ひつそりした部屋の中では、燈心の油を吸ふ音が、蟋蟀こほろぎの声と共に、空しく夜長の寂しさを語つてゐる。
 始め筆をおろした時、彼の頭の中には、かすかな光のやうなものが動いてゐた。が、十行二十行と、筆が進むのに従つて、その光のやうなものは、次第に大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知つてゐた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行つた。神来の興は火と少しも変りがない。起す事を知らなければ、一度燃えても、すぐに又消えてしまふ。……
「あせるな。さうして出来る丈、深く考へろ。」
 馬琴はややもすれば走りさうな筆をいましめながら、何度もかう自分にささやいた。が、頭の中にはもうさつきの星を砕いたやうなものが、川よりも早く流れてゐる。さうしてそれが刻々に力を加へて来て、否応なしに彼を押しやつてしまふ。
 彼の耳には何時か、蟋蟀の声が聞えなくなつた。彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。筆はおのづから勢を生じて、一気に紙の上をすべりはじめる。彼は神人しんじん相搏あひうつやうな態度で、殆ど必死に書きつづけた。
 頭の中の流は、丁度空を走る銀河のやうに、滾々こんこんとして何処からか溢れて来る。彼はそのすさまじい勢を恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐へられなくなる場合を気づかつた。さうして、かたく筆を握りながら、何度もかう自分に呼びかけた。
「根かぎり書きつづけろ。今おれが書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ。」
 しかし光のもやに似た流は、少しもその速力をゆるめない。反つて目まぐるしい飛躍の中に、あらゆるものを溺らせながら、澎湃はうはいとして彼を襲つて来る。彼はつひに全くそのとりこになつた。さうして一切を忘れながら、その流の方向に、嵐のやうな勢で筆をつた。
 この時彼の王者のやうな眼に映つてゐたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉きよに煩はされる心などは、とうに眼底を払つて消えてしまつた。あるのは、唯不可思議な悦びである。或は恍惚たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧げさくざんまいの心境が味到されよう。どうして戯作者のおごそかな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓ざんしを洗つて、まるで新しい鉱石のやうに、美しく作者の前に、輝いてゐるではないか。……
        *      *      *
 その間も茶の間の行燈のまはりでは、しうとのお百と、嫁のお路とが、向ひ合つて縫物を続けてゐる。太郎はもう寝かせたのであらう。少し離れた所には※(「兀+王」、第3水準1-47-62)わうじやくらしい宗伯が、さつきから丸薬をまろめるのに忙しい。
「お父様とつさんはまだ寝ないかねえ。」
 やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしくつぶやいた。
「きつと又お書きもので、夢中になつていらつしやるのでせう。」
 お路は眼を針から離さずに、返事をした。
「困り者だよ。ろくなお金にもならないのにさ。」
 お百はかう云つて、伜と嫁とを見た。宗伯は聞えないふりをして、答へない。お路も黙つて針を運びつづけた。蟋蟀はここでも、書斎でも、変りなく秋を鳴きつくしてゐる。

(大正六年十一月)




 



底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月16日公開
2004年1月11日修正
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