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戯作三昧(げさくざんまい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 16:12:47  点击:  切换到繁體中文



       十四

 茶の間の方では、癇高かんだかい妻のおひやくの声や内気らしい嫁のおみちの声がにぎやかに聞えてゐる。時々太い男の声がまじるのは、折からせがれ宗伯そうはくも帰り合せたらしい。太郎は祖父の膝に跨がりながら、それを聞きすましでもするやうに、わざと真面目な顔をして天井を眺めた。外気にさらされた頬が赤くなつて、小さな鼻の穴のまはりが、息をする度に動いてゐる。
「あのね、お祖父様にね。」
 栗梅くりうめの小さな紋附を着た太郎は、突然かう云ひ出した。考へようとする努力と、笑ひたいのをこらへようとする努力とで、ゑくぼが何度も消えたり出来たりする。――それが馬琴には、おのづから微笑を誘ふやうな気がした。
「よく毎日まいんち。」
「うん、よく毎日?」
「御勉強なさい。」
 馬琴はとうとう噴き出した。が、笑の中ですぐ又ことばをつぎながら、
「それから?」
「それから――ええと――癇癪かんしやくを起しちやいけませんつて。」
「おやおや、それつきりかい。」
「まだあるの。」
 太郎はかう云つて、糸鬢奴いとびんやつこの頭を仰向あふむけながら自分も亦笑ひ出した。眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨をよせて、笑つてゐるのを見ると、これが大きくなつて、世間の人間のやうな憐れむべき顔にならうとは、どうしても思はれない。馬琴は幸福の意識に溺れながら、こんな事を考へた。さうしてそれが、更に又彼の心をくすぐつた。
「まだ何かあるかい?」
「まだね。いろんな事があるの。」
「どんな事が。」
「ええと――お祖父ぢい様はね。今にもつとえらくなりますからね。」
「えらくなりますから?」
「ですからね。よくね。辛抱おしなさいつて。」
「辛抱してゐるよ。」馬琴は思はず、真面目な声を出した。
「もつと、もつとようく辛抱なさいつて。」
「誰がそんな事を云つたのだい。」
「それはね。」
 太郎は悪戯いたづらさうに、ちよいと彼の顔を見た。さうして笑つた。
「だあれだ?」
「さうさな。今日は御仏参に行つたのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだらう。」
「違ふ。」
 断然として首を振つた太郎は、馬琴の膝から、半分腰をもたげながら、あごを少し前へ出すやうにして、
「あのね。」
「うん。」
「浅草の観音様がさう云つたの。」
 かう云ふと共に、この子供は、家内中に聞えさうな声で嬉しさうに笑ひながら、馬琴につかまるのを恐れるやうに、急いで彼の側から飛び退いた。さうしてうまく祖父をかついだ面白さに小さな手を叩きながら、ころげるやうにして茶の間の方へ逃げて行つた。
 馬琴の心に、厳粛な何物かが刹那せつなひらめいたのは、この時である。彼の唇には幸福な微笑が浮んだ。それと共に彼の眼には、何時か涙が一ぱいになつた。この冗談は太郎が考へ出したのか、或は又母が教へてやつたのか、それは彼の問ふ所ではない。この時、この孫の口から、かう云ふことばを聞いたのが、不思議なのである。
「観音様がさう云つたか。勉強しろ。癇癪を起すな。さうしてもつとよく辛抱しろ。」
 六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑ひながら、子供のやうにうなづいた。

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