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木曽義仲論(きそのよしなかろん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:56:29  点击:  切换到繁體中文


 

 ○治承四年十月二十三日 入道相国福原の新都を去り、同二十六日京都に入る。
 ○十二月二日 平知盛等を東国追討使として関東に向はしむ。
 ○同十日 淡路守清房をして、園城寺をうたしむ。山門の僧兵園城寺を扶けて、平軍と山科に戦ふ。
  同日 清房園城寺を火き、緇徒を屠る。
 ○同二十五日 蔵人頭重衡をして、南都に向はしむ。
 ○同廿八日 重衡、兵数千を率ゐて興福寺東大寺を火き、一宇の僧房を止めず、梟首三十余級。
 ○同廿九日 重衡都へ帰る。

彼が駕を旧都に還してより、僅に三十余日、しかも其傍若無人の行動は、実に天下をして驚倒せしめたり。
彼は、時代の信仰を憚らずして、伽藍を火くを恐れざりき。然れども彼は僧徒の横暴を抑へむが為に、然かせるにあらず。内、自ら解体せむとする政府を率ゐ、外、猛然として来り迫る革命の気運に応ぜむには、先、近畿の禍害を掃蕩するの急務なるを信じたるが為めのみ。而して彼は、此一挙が平氏政府の命運を繋ぎたる一縷の糸を切断せしを知らざる也。彼が此破天荒の痛撃は、久しく平氏が頭上の瘤視したる南都北嶺をして、遂に全く屏息し去るの止むを得ざるに至らしめたりと雖も、平氏は之が為に更に大なる僧徒の反抗を喚起したり。啻に僧徒の反抗を招きたるのみならず、又実に醇篤なる信仰を有したる天下の蒼生をして、仏敵を以て平氏を呼ばしむるに至りたりき。形勢、既にかくの如し。自ら蜂巣を破れる入道相国と雖も、焉ぞ奔命に疲れざるを得むや。時人謡ひて曰く「咲きつゞく花の都をふりすてて、風ふく原の末ぞあやふき」と、然り真に「風ふく原の末ぞ」あやふかりき。平氏は、福原の遷都を、掉尾の飛躍として、治承より養和に、養和より寿永に、寿永より元暦に、天暦より文治に、円石を万仞の峰頭より転ずるが如く、刻々亡滅の深淵に向つて走りたりき。

将門、将を出すと云へるが如く、我木曾義仲も亦、将門の出なりき。彼は六条判官源為義の孫、帯刀先生義賢の次子、木曾の山間に人となれるを以て、時人称して木曾冠者と云ひぬ。久寿二年二月、義賢の悪源太義平に戮せらるゝや、義平、彼の禍をなさむ事を恐れ、畠山庄司重能をして、彼を求めしむる、急也。重能彼の幼弱なるを憫み、竊に之を斎藤別当実盛に託し、実盛亦彼を東国にあらしむるの危きを察して、之を附するに中三権頭兼遠を以てしぬ。而して中三権頭兼遠は、実に木曾の渓谷に雄視せる豪族の一なりき。時に彼は年僅に二歳、彼のローマンチツクなる生涯は、既に是に兆せし也。
吾人は、彼の事業を語るに先だち、先づ木曾を語らざるべからず。何となれば、彼の木曾に在る二十余年、彼の一生が此間に多大の感化を蒙れるは、殆ど疑ふべからざれば也。請ふ吾人をして源平盛衰記を引かしめよ。曰、

木曾と云ふ所は究竟の城廓なり、長山遙に連りて禽獣稀にして嶮岨屈曲也、渓谷は大河漲り下つて人跡亦幽なり、谷深く桟危くしては足を峙てて歩み、峰高く巌稠しては眼を載せて行く、尾を越え尾に向つて心を摧き、谷を出で谷に入つて思を費す、東は信濃、上野、武蔵、相摸に通つて奥広く、南は美濃国に境道一にして口狭し、行程三日の深山也。縦、数千万騎を以ても攻落すべき様もなし、況や、桟梯引落して楯籠らば、馬も人も通ふべき所にあらずと。

是、東海の蜀道にあらずや。惟ふに函谷の嶮によれる秦の山川が、私闘に怯にして公戦に勇なる秦人を生めるが如く、革命の気運既に熟して天下乱を思ふの一時に際し、昂然として大義を四海に唱へ、幾多慓悍なる革命の健児を率ゐ、長駆、六波羅に迫れる旭日将軍の故郷として、はた其事業の立脚地として、恥ぢざるの地勢を有したりと云ふべし。然り、彼が一世を空うするの覇気と、彼が旗下に投ぜる木曾の健児とは、実に、木曾川の長流と木曾山脈の絶嶺とに擁せられたる、此二十里の大峡谷に養はれし也。然らば彼が家庭は如何。麻中の蓬をして直からしむものは、蓬辺の麻也。英雄の児をして英雄の児たらしむるものは其家庭也。是ハミルカルありて始めてハンニバルあり、項梁ありて始めて項羽あり、信秀ありて始めて信長あるの所以、鄭家の奴学ばずして、詩を歌ふの所以にあらずや。思うて是に至る、吾人は遂に、彼が乳人にして、しかも彼が先達たる中三権頭兼遠の人物を想見せざる能はず。彼の義仲に於ける、猶北条四郎時政の頼朝に於ける如し。彼は、より朴素なる張良にして、此は、より老猾なる范増なれども、共に源氏の胄子を擁し、大勢に乗じて中原の鹿を争はしめたるに於ては、遂に其帰趣を同くせずンばあらず。
義仲が革命の旗を飜して檄を天下に伝へむとするや、彼は踊躍して、「其料にこそ、君をば此二十年まで養育し奉りて候へ、かやうに仰せらるゝこそ八幡殿の御末とも思させましませ」と叫びたりき。「立馬呉山第一峰」の野心、此短句に躍々たるを見るべし。始め、実盛の義仲をして彼が許に在らしむるや、彼は竊に「今こそ孤にておはしますとも、武運開かば日本国の武家の主ともなりや候はむ。いかさまにも養立てて、北陸道の大将軍ともなし奉らむ」と独語したりき。彼が、雄心勃々として禁ずる能はず、機に臨ンで其驥足を伸べむと試みたる老将たりしや知るべきのみ。年少気鋭、不尽の火其胸中に燃えて止まざる我義仲にして斯老の膝下にある、焉ぞ其心躍らざるを得むや。彼が悍馬に鞭ちて疾駆するや、彼が長弓を横へて雉兎を逐ふや、彼は常に「これは平家を攻むべき手ならひ」と云へり。
かゝる家門の歴史を有し、かゝる渓谷に人となり、而してかゝる家庭に成育せる彼は、かくの如くにして其烈々たる青雲の念を鼓動せしめたり。彼は実に木曾の健児也。其一代の風雲を捲き起せるの壮心、其真率にして自ら忍ぶ能はざるの血性、其火の如くなる功名心、皆、此「上有横河断海之浮雲、下有衝波逆折之回川」の木曾の高山幽壑の中に磅※(「石+薄」、第3水準1-89-18)したる、家庭の感化の中より得来れるや、知るべきのみ。吾人既に彼が時勢を見、既に彼が境遇を見る、彼が如何なる人物にして、彼が雄志の那辺に向へるかは、吾人の解説を待つて之を知らざる也。
今や、跼天蹐地の孤児は漸くに青雲の念燃ゆるが如くなる青年となれり。而して彼は満腔の覇気、欝勃として抑ふべからざると共に、短褐孤剣、飄然として天下に放浪したり。彼が此数年の放浪は、実に彼が活ける学問なりき。吾人は彼が放浪について多く知る所あらざれども、彼は屡※(二の字点、1-2-22)京師に至りて六波羅のほとりをも徘徊したるが如し。彼は、恐らく、此放浪によりて天下の大勢の眉端に迫れるを、最も切実に感じたるならむ。恐らくは又、其功名の念にして、更に幾斛の油を注がれたりしならむ。想ふ、彼が独り京洛の路上に立ちて、平門の貴公子が琵琶を抱いて落花に対するを望める時、殿上の卿相が玉笛を吹いて春に和せるを仰げる時、はた入道相国が輦車を駆り、兵仗を従へ、儀衛堂々として、濶歩せるを眺めし時、必ずや、彼は其胸中に幾度か我とつて代らむと叫びしなるべし。
然り、彼が天下を狭しとするの雄心は、実に此放浪によつて、養はれたり。彼が霊火は刻一刻より燃え来れり。彼は屡※(二の字点、1-2-22)長剣を按じたり。然れども、彼は猶、機を窺うて動かざりき。将に是、池中の蛟竜が風雲の乗ずべきを待ちて、未立たざるもの、唯機会だにあらしめば、彼が鵬翼の扶揺を搏つて上ること九万里、青天を負うて南を図らむとする日の近きや知るべきのみ。
思ふに、彼は、鹿ヶ谷の密謀によりて、小松内府の薨去によりて、南都北嶺の反心によりて、平賊の命運、既に旦夕に迫れるを見、竊に莞爾として時の到らむとするを祝せしならむ。然り、機は来れり、バスチールを壊つべきの機は遂に来れり。天下は高倉宮の令旨と共に、海の如く動いて革命に応じたり。而して、彼が伝家の白旗は、始めて木曾の山風に飜されたり。時に彼、年二十七歳、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧を重ね、鍬形の兜に黄金づくりの太刀、鴎尻に佩き反らせたる、誠に皎として、玉樹の風前に臨むが如し。天下風を仰いで其旗下に集るもの、実に五万余人、根井大弥太行親は来れり、楯六郎親忠は来れり、野州の足利、甲州の武田、上州の那和、亦相次いで翕然として来り従ひ、革命軍の軍威隆々として大に振ふ。図南の鵬翼既に成れり。是に於て、彼は戦鼓を打ち旌旗を連ね、威風堂々として、南信を出で、軍鋒の向ふ所枯朽を摧くが如く、治承四年九月五日、善光寺平の原野に、笠原平五頼直(平氏の党)を撃つて大に破り、次いで鋒を転じて上野に入り、同じき十月十三日、上野多胡の全郡を降し、上州の豪族をして、争うて其大旗の下に参集せしめたり。是実に頼朝が富士川の大勝に先だつこと十日、かくの如くにして、彼は、殆ど全信州を其掌中に収め了れり。

革命軍の飛報、頻々として櫛の歯をひくが如し。東夷西戎、並び起り、三色旗は日一日より平安の都に近づかむとす。楚歌、蓬壺をめぐつて響かむの日遠きにあらず。紅燈緑酒の間に長夜の飲を恣にしたる平氏政府も、是に至つて遂に、震駭せざる能はざりき。如何に大狼狽したるよ。平治以来、螺鈿を鏤め金銀を装ひ、時流の華奢を凝したる、馬鞍刀槍も、是唯泰平の装飾のみ。一門の子弟は皆、殿上後宮の娘子軍のみ、之を以て波濤の如く迫り来る革命軍に当らむとす、豈朽索を以て六馬を馭するに類する事なきを得むや。今や平氏政府の周章は其極点に達したり。然れ共、入道相国の剛腸は猶猛然として将に仆れむとする平氏政府を挽回せむと欲したり。彼は、東軍の南海を経て京師に向はむとするを聞き、軍を派して沿海を守らしめたり。
彼は西海北陸両道の糧馬を以て、東軍と戦はむと試みたり。彼が、困憊、衰残の政府を提げて、驀然として来り迫る革命軍に応戦したるを見る、恰も、颶風の中に立てる参天の巨樹の如き概あり。吾人思うて是に至る、遂に彼が苦衷を了せずンばあらず。関東に源兵衛佐あり、木曾に旭日将軍あり、而して京師に入道相国あり、三個の風雲児にして各※(二の字点、1-2-22)手に唾して天下を賭す。
真に是れ、青史に多く比を見ざるの偉観也。しかも運命は飽く迄も平氏に無情なりき。平宗盛を主将とせる有力なる征東軍が羽檄を天下に伝へて、京師を発せむとするの前夜(養和元年閏二月一日)天乎命乎、入道相国は俄然として病めり。征東の軍是に期を失して発せず、越えて四日、病革りて祖竜遂に仆る。赤旗光無うして日色薄し、黄埃散漫として風徒に粛索、帯甲百万、路に満つれども往反の客、面に憂色あり。嗚呼、絶代の英雄児はかくの如くにして逝けり。平門の柱石はかくの如くにして砕けたり。棟梁の材既になし、かくして誰か成功を百里の外に期するものぞ。見よ見よ西海の没落は刻々眉端に迫れる也。
入道相国逝いて宗盛次いで立つ。然れども彼は不肖の子なりき。彼は経世的手腕と眼孔とに於ては殆ど乃父浄海の足下にも及ぶ能はざりき。彼は興福東大両寺の荘園を還附し、宣旨を以て三十五ヶ国に諜し興福寺の修造を命ぜしめしが如き、仏に佞し僧に諛ひ、平門の威武を墜さしむる、是より大なるは非ず。彼は直覚的烱眼に於ては乃父に劣る事遠く、天下の大機を平正穏当の間に補綴し、人をして其然るを覚えずして然らしむる、活滑なる器度に於ては、重盛に及ばず。懸軍万里、計を帷幄の中にめぐらし、勝を千里の外に決する将略に於ては我義仲に比肩する能はず。しかも猶、其不学、無術を以て、天下の革命軍に対せむとす。是、赤手を以て江河を支ふるの難きよりも、難き也。泰山既に倒れ豎子台鼎の重位に上る、革命軍の意気は愈※(二の字点、1-2-22)昂れり。しかも、此時に於て平氏に致命の打撃を与へたるは、実に其財政難なりき。平家物語の著者をして「おそらくは、帝闕も仙洞もこれにはすぎじとぞ見えし」と、驚歎せしめたる一門の栄華は、遂に平氏の命数をして、幾年の短きに迫らしめたり。夫水蹙れば魚益※(二の字点、1-2-22)躍る。是に於て平氏は、恰も傷きたる猪の如く、無二無三に過重なる収斂を以て、此窮境を脱せむと欲したり。平氏が使者を伊勢の神三郡に遣りて、兵糧米を、充課したるが如き、はた、平貞能の九州に下りて、徭を重うし、賦を繁うし、四方の怨嗟を招きしが如き、是、平氏の財力の既に窮したるを表すものにあらずや。
ああ大絃急なれば小絃絶ゆ。さらぬだに、凶年と兵乱とに苦める天下の蒼生は、今や彼等が倒懸の苦楚に堪ふる能はず、斉しく立つて平氏を呪ひ、平氏を罵り、平氏に反き、空拳を以て彼等が軛を脱せむと試みしなり。是に於て、靄の如く天下を蔽へる蒼生は、不平の忽にして、革命軍の成功を期待するの、盛なる声援の叫となれり。しかも此危険に際して、猶諸国に命じて南都の両寺を修せしめしが如き、傘張法橋の豚犬児が、愚なる政策は、此声援をして更に幾倍の大を加へしめたり。入道相国逝いて未三歳ならず、胡馬洛陽に嘶き、天日西海に没せる、豈宜ならずとせむや。

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