三
それから間もなくの事である。
斉広がいつものように、殿中の一間で煙草をくゆらせていると、西王母を描いた金襖が、静に開いて、黒手の黄八丈に、黒の紋附の羽織を着た坊主が一人、恭しく、彼の前へ這って出た。顔を上げずにいるので、誰だかまだわからない。――斉広は、何か用が出来たのかと思ったので、煙管をはたきながら、寛濶に声をかけた。
「何用じゃ。」
「ええ、宗俊御願がございまする。」
河内山はこう云って、ちょいと言葉を切った。それから、次の語を云っている中に、だんだん頭を上げて、しまいには、じっと斉広の顔を見つめ出した。こう云う種類の人間のみが持って居る、一種の愛嬌をたたえながら、蛇が物を狙うような眼で見つめたのである。
「別儀でもございませんが、その御手許にございまする御煙管を、手前、拝領致しとうございまする。」
斉広は思わず手にしていた煙管を見た。その視線が、煙管へ落ちたのと、河内山が追いかけるように、語を次いだのとが、ほとんど同時である。
「如何でございましょう。拝領仰せつけられましょうか。」
宗俊の語の中にあるものは懇請の情ばかりではない、お坊主と云う階級があらゆる大名に対して持っている、威嚇の意も籠っている。煩雑な典故を尚んだ、殿中では、天下の侯伯も、お坊主の指導に従わなければならない。斉広には一方にそう云う弱みがあった。それからまた一方には体面上卑吝の名を取りたくないと云う心もちがある。しかも、彼にとって金無垢の煙管そのものは、決して得難い品ではない。――この二つの動機が一つになった時、彼の手は自ら、その煙管を、河内山の前へさし出した。
「おお、とらす。持ってまいれ。」
「有難うございまする。」
宗俊は、金無垢の煙管をうけとると、恭しく押頂いて、そこそこ、また西王母の襖の向うへ、ひき下った。すると、ひき下る拍子に、後から袖を引いたものがある。ふりかえると、そこには、了哲が、うすいものある顔をにやつかせながら、彼の掌の上にある金無垢の煙管をもの欲しそうに、指さしていた。
「こう、見や。」
河内山は、小声でこう云って、煙管の雁首を、了哲の鼻の先へ、持って行った。
「とうとう、せしめたな。」
「だから、云わねえ事じゃねえ。今になって、羨ましがったって、後の祭だ。」
「今度は、私も拝領と出かけよう。」
「へん、御勝手になせえましだ。」
河内山は、ちょいと煙管の目方をひいて見て、それから、襖ごしに斉広の方を一瞥しながら、また、肩をゆすってせせら笑った。
四
では、煙管をまき上げられた斉広の方は、不快に感じたかと云うと、必しもそうではない。それは、彼が、下城をする際に、いつになく機嫌のよさそうな顔をしているので、供の侍たちが、不思議に思ったと云うのでも、知れるのである。
彼は、むしろ、宗俊に煙管をやった事に、一種の満足を感じていた。あるいは、煙管を持っている時よりも、その満足の度は、大きかったかも知れない。しかしこれは至極当然な話である。何故と云えば、彼が煙管を得意にするのは、前にも断ったように、煙管そのものを、愛翫するからではない。実は、煙管の形をしている、百万石が自慢なのである。だから、彼のこの虚栄心は、金無垢の煙管を愛用する事によって、満足させられると同じように、その煙管を惜しげもなく、他人にくれてやる事によって、更によく満足させられる訳ではあるまいか。たまたまそれを河内山にやる際に、幾分外部の事情に、強いられたような所があったにしても、彼の満足が、そのために、少しでも損ぜられる事なぞはないのである。
そこで、斉広は、本郷の屋敷へ帰ると、近習の侍に向って、愉快そうにこう云った。
「煙管は宗俊の坊主にとらせたぞよ。」
五
これを聞いた家中の者は、斉広の宏量なのに驚いた。しかし御用部屋の山崎勘左衛門、御納戸掛の岩田内蔵之助、御勝手方の上木九郎右衛門――この三人の役人だけは思わず、眉をひそめたのである。
加州一藩の経済にとっては、勿論、金無垢の煙管一本の費用くらいは、何でもない。が、賀節朔望二十八日の登城の度に、必ず、それを一本ずつ、坊主たちにとられるとなると、容易ならない支出である。あるいは、そのために運上を増して煙管の入目を償うような事が、起らないとも限らない。そうなっては、大変である――三人の忠義の侍は、皆云い合せたように、それを未然に惧れた。
そこで、彼等は、早速評議を開いて、善後策を講じる事になった。善後策と云っても、勿論一つしかない。――それは、煙管の地金を全然変更して、坊主共の欲しがらないようなものにする事である。が、その地金を何にするかと云う問題になると、岩田と上木とで、互に意見を異にした。
岩田は君公の体面上銀より卑しい金属を用いるのは、異なものであると云う。上木はまた、すでに坊主共の欲心を防ごうと云うのなら、真鍮を用いるのに越した事はない。今更体面を、顧慮する如きは、姑息の見であると云う。――二人は、各々、自説を固守して、極力論駁を試みた。
すると、老功な山崎が、両説とも、至極道理がある。が、まず、一応、銀を用いて見て、それでも坊主共が欲しがるようだったら、その後に、真鍮を用いても、遅くはあるまい。と云う折衷説を持出した。これには二人とも、勿論、異議のあるべき筈がない。そこで評議は、とうとう、また、住吉屋七兵衛に命じて銀の煙管を造らせる事に、一決した。
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