「それ以来僕の心の中では、始終あの女の事を思っている。するとまた金陵へ帰ってからも、不思議に毎晩眠りさえすれば、必ずあの家が夢に見える。しかも一昨日の晩なぞは、僕が女に水晶の双魚の扇墜を贈ったら、女は僕に紫金碧甸の指環を抜いて渡してくれた。と思って眼がさめると、扇墜が見えなくなった代りに、いつか僕の枕もとには、この指環が一つ抜き捨ててある。してみれば女に遇っているのは、全然夢とばかりも思われない。が、夢でなければ何だと云うと、――僕も答を失してしまう。
「もし仮に夢だとすれば、僕は夢に見るよりほかに、あの家の娘を見たことはない。いや、娘がいるかどうか、それさえはっきりとは知らずにいる。が、たといその娘が、実際はこの世にいないのにしても、僕が彼女を思う心は、変る時があるとは考えられない。僕は僕の生きている限り、あの池だの葡萄棚だの緑色の鸚鵡だのと一しょに、やはり夢に見る娘の姿を懐しがらずにはいられまいと思う。僕の話と云うのは、これだけなのだ。」
「なるほど、ありふれた才子の情事ではない。」
趙生は半ば憐むように、王生の顔へ眼をやった。
「それでは君はそれ以来、一度もその家へは行かないのかい。」
「うん。一度も行った事はない。が、もう十日ばかりすると、また松江へ下る事になっている。その時渭塘を通ったら、是非あの酒旗の出ている家へ、もう一度舟を寄せて見るつもりだ。」
それから実際十日ばかりすると、王生は例の通り舟を艤して、川下の松江へ下って行った。そうして彼が帰って来た時には、――趙生を始め大勢の友人たちは、彼と一しょに舟を上った少女の美しいのに驚かされた。少女は実際部屋の窓に、緑色の鸚鵡を飼いながら、これも去年の秋幕の陰から、そっと隙見をした王生の姿を、絶えず夢に見ていたそうである。
「不思議な事もあればあるものだ。何しろ先方でもいつのまにか、水晶の双魚の扇墜が、枕もとにあったと云うのだから、――」
趙生はこう遇う人毎に、王生の話を吹聴した。最後にその話が伝わったのは、銭塘の文人瞿祐である。瞿祐はすぐにこの話から、美しい渭塘奇遇記を書いた。……
× × ×
小説家 どうです、こんな調子では?
編輯者 ロマンティクな所は好いようです。とにかくその小品を貰う事にしましょう。
小説家 待って下さい。まだ後が少し残っているのです。ええと、美しい渭塘奇遇記を書いた。――ここまでですね。
× × ×
しかし銭塘の瞿祐は勿論、趙生なぞの友人たちも、王生夫婦を載せた舟が、渭塘の酒家を離れた時、彼が少女と交換した、下のような会話を知らなかった。
「やっと芝居が無事にすんだね。おれはお前の阿父さんに、毎晩お前の夢を見ると云う、小説じみた嘘をつきながら、何度冷々したかわからないぜ。」
「私もそれは心配でしたわ。あなたは金陵の御友だちにも、やっぱり嘘をおつきなすったの。」
「ああ、やっぱり嘘をついたよ。始めは何とも云わなかったのだが、ふと友達にこの指環を見つけられたものだから、やむを得ず阿父さんに話す筈の、夢の話をしてしまったのさ。」
「ではほんとうの事を知っているのは、一人もほかにはない訳ですわね。去年の秋あなたが私の部屋へ、忍んでいらしった事を知っているのは、――」
「私。私。」
二人は声のした方へ、同時に驚いた眼をやった。そうしてすぐに笑い出した。帆檣に吊った彫花の籠には、緑色の鸚鵡が賢そうに、王生と少女とを見下している。…………
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編輯者 それは蛇足です。折角の読者の感興をぶち壊すようなものじゃありませんか? この小品が雑誌に載るのだったら、是非とも末段だけは削って貰います。
小説家 まだ最後ではないのです。もう少し後があるのですから、まあ、我慢して聞いて下さい。
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しかし銭塘の瞿祐は勿論、幸福に満ちた王生夫婦も、舟が渭塘を離れた時、少女の父母が交換した、下のような会話を知らなかった。父母は二人とも目かげをしながら、水際の柳や槐の陰に、その舟を見送っていたのである。
「お婆さん。」
「お爺さん。」
「まずまず無事に芝居もすむし、こんな目出たい事はないね。」
「ほんとうにこんな目出たい事には、もう二度とは遇えませんね。ただ私は娘や壻の、苦しそうな嘘を聞いているのが、それはそれは苦労でしたよ。お爺さんは何も知らないように、黙っていろと御云いなすったから、一生懸命にすましていましたが、今更あんな嘘をつかなくっても、すぐに一しょにはなれるでしょうに、――」
「まあ、そうやかましく云わずにやれ。娘も壻も極り悪さに、智慧袋を絞ってついた嘘だ。その上壻の身になれば、ああでも云わぬと、一人娘は、容易にくれまいと思ったかも知れぬ。お婆さん、お前はどうしたと云うのだ。こんな目出たい婚礼に、泣いてばかりいてはすまないじゃないか?」
「お爺さん。お前さんこそ泣いている癖に……」
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小説家 もう五六枚でおしまいです。次手に残りも読んで見ましょう。
編輯者 いや、もうその先は沢山です。ちょいとその原稿を貸して下さい。あなたに黙って置くと、だんだん作品が悪くなりそうです。今までも中途で切った方が、遥に好かったと思いますが、――とにかくこの小品は貰いますから、そのつもりでいて下さい。
小説家 そこで切られては困るのですが、――
編輯者 おや、もうよほど急がないと、五時の急行には間に合いませんよ。原稿の事なぞはかまっていずに、早く自動車でも御呼びなさい。
小説家 そうですか。それは大変だ。ではさようなら。何分よろしく。
編輯者 さようなら、御機嫌好う。
(大正十年三月)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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