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奇遇(きぐう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:51:51  点击:  切换到繁體中文


「それ以来僕の心のうちでは、始終あの女の事を思っている。するとまた金陵きんりょうへ帰ってからも、不思議に毎晩眠りさえすれば、必ずあのうちが夢に見える。しかも一昨日おとといの晩なぞは、僕が女に水晶すいしょう双魚そうぎょ扇墜せんついを贈ったら、女は僕に紫金碧甸しこんへきでんの指環を抜いて渡してくれた。と思って眼がさめると、扇墜が見えなくなった代りに、いつか僕の枕もとには、この指環が一つ抜き捨ててある。してみれば女にっているのは、全然夢とばかりも思われない。が、夢でなければ何だと云うと、――僕も答を失してしまう。
「もし仮に夢だとすれば、僕は夢に見るよりほかに、あのうちの娘を見たことはない。いや、娘がいるかどうか、それさえはっきりとは知らずにいる。が、たといその娘が、実際はこの世にいないのにしても、僕が彼女を思う心は、変る時があるとは考えられない。僕は僕の生きている限り、あの池だの葡萄棚ぶどうだなだの緑色の鸚鵡おうむだのと一しょに、やはり夢に見る娘の姿を懐しがらずにはいられまいと思う。僕の話と云うのは、これだけなのだ。」
「なるほど、ありふれた才子の情事ではない。」
 趙生ちょうせいは半ばあわれむように、王生おうせいの顔へ眼をやった。
「それでは君はそれ以来、一度もそのうちへは行かないのかい。」
「うん。一度も行った事はない。が、もう十日ばかりすると、また松江しょうこうくだる事になっている。その時渭塘いとうを通ったら、是非あの酒旗しゅきの出ている家へ、もう一度舟を寄せて見るつもりだ。」
 それから実際十日ばかりすると、王生は例の通り舟をして、川下かわしもの松江へ下って行った。そうして彼が帰って来た時には、――趙生を始め大勢の友人たちは、彼と一しょに舟をあがった少女の美しいのに驚かされた。少女は実際部屋の窓に、緑色の鸚鵡おうむを飼いながら、これも去年の秋まくかげから、そっと隙見すきみをした王生の姿を、絶えず夢に見ていたそうである。
「不思議な事もあればあるものだ。何しろ先方でもいつのまにか、水晶の双魚の扇墜が、枕もとにあったと云うのだから、――」
 趙生はこう遇う人毎ひとごとに、王生の話を吹聴ふいちょうした。最後にその話が伝わったのは、銭塘せんとうの文人瞿祐くゆうである。瞿祐はすぐにこの話から、美しい渭塘奇遇記いとうきぐうきを書いた。……

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小説家 どうです、こんな調子では?
編輯者 ロマンティクな所はいようです。とにかくその小品しょうひんを貰う事にしましょう。
小説家 待って下さい。まだあとが少し残っているのです。ええと、美しい渭塘奇遇記いとうきぐうきを書いた。――ここまでですね。

       ×          ×          ×

 しかし銭塘せんとう瞿祐くゆうは勿論、趙生ちょうせいなぞの友人たちも、王生おうせい夫婦をせた舟が、渭塘いとう酒家しゅかを離れた時、彼が少女と交換した、しものような会話を知らなかった。
「やっと芝居が無事にすんだね。おれはお前の阿父おとうさんに、毎晩お前の夢を見ると云う、小説じみた嘘をつきながら、何度冷々ひやひやしたかわからないぜ。」
わたしもそれは心配でしたわ。あなたは金陵きんりょうの御友だちにも、やっぱり嘘をおつきなすったの。」
「ああ、やっぱり嘘をついたよ。始めは何とも云わなかったのだが、ふと友達にこの指環ゆびわを見つけられたものだから、やむを得ず阿父さんに話す筈の、夢の話をしてしまったのさ。」
「ではほんとうの事を知っているのは、一人もほかにはない訳ですわね。去年の秋あなたが私の部屋へ、忍んでいらしった事を知っているのは、――」
「私。私。」
 二人は声のした方へ、同時に驚いた眼をやった。そうしてすぐに笑い出した。帆檣ほばしらに吊った彫花ちょうかの籠には、緑色の鸚鵡おうむが賢そうに、王生と少女とを見下している。…………

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編輯者 それは蛇足だそくです。折角の読者の感興をぶち壊すようなものじゃありませんか? この小品が雑誌に載るのだったら、是非とも末段だけはけずって貰います。
小説家 まだ最後ではないのです。もう少しあとがあるのですから、まあ、我慢して聞いて下さい。

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 しかし銭塘の瞿祐は勿論、幸福に満ちた王生夫婦も、舟が渭塘を離れた時、少女の父母が交換した、しものような会話を知らなかった。父母は二人ともかげをしながら、水際みずぎわの柳やえんじゅの陰に、その舟を見送っていたのである。
「お婆さん。」
「お爺さん。」
「まずまず無事に芝居もすむし、こんな目出たい事はないね。」
「ほんとうにこんな目出たい事には、もう二度とはえませんね。ただ私は娘やむこの、苦しそうな嘘を聞いているのが、それはそれは苦労でしたよ。お爺さんは何も知らないように、黙っていろと御云いなすったから、一生懸命にすましていましたが、今更いまさらあんな嘘をつかなくっても、すぐに一しょにはなれるでしょうに、――」
「まあ、そうやかましく云わずにやれ。娘も壻もきまり悪さに、智慧袋ちえぶくろを絞ってついた嘘だ。その上壻の身になれば、ああでも云わぬと、一人娘は、容易にくれまいと思ったかも知れぬ。お婆さん、お前はどうしたと云うのだ。こんな目出たい婚礼に、泣いてばかりいてはすまないじゃないか?」
「お爺さん。お前さんこそ泣いている癖に……」

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小説家 もう五六枚でおしまいです。次手ついでに残りも読んで見ましょう。
編輯者 いや、もうその先は沢山です。ちょいとその原稿を貸して下さい。あなたに黙って置くと、だんだん作品が悪くなりそうです。今までも中途で切った方が、はるかに好かったと思いますが、――とにかくこの小品しょうひんは貰いますから、そのつもりでいて下さい。
小説家 そこで切られては困るのですが、――
編輯者 おや、もうよほど急がないと、五時の急行にはに合いませんよ。原稿の事なぞはかまっていずに、早く自動車でも御呼びなさい。
小説家 そうですか。それは大変だ。ではさようなら。何分なにぶんよろしく。
編輯者 さようなら、御機嫌好う。

(大正十年三月)




 



底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1993(平成5)年12月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月19日公開
2004年3月8日修正
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