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彼 第二(かれ だいに)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:42:36  点击:  切换到繁體中文



        四

 僕が最後に彼に会ったのは上海シャンハイのあるカッフェだった。(彼はそれから半年はんとしほどのち天然痘てんねんとうかかって死んでしまった。)僕等は明るい瑠璃燈るりとうしたにウヰスキイ炭酸たんさんを前にしたまま、左右のテエブルにむらがった大勢おおぜい男女なんにょを眺めていた。彼等は二三人の支那人シナじんを除けば、大抵は亜米利加アメリカ人か露西亜ロシア人だった。が、その中に青磁色せいじいろのガウンをひっかけた女が一人、誰よりも興奮してしゃべっていた。彼女は体こそせていたものの、誰よりも美しい顔をしていた。僕は彼女の顔を見た時、砧手きぬたでのギヤマンを思い出した。実際また彼女は美しいと云っても、どこか病的だったのに違いなかった。
なんだい、あの女は?」
「あれか? あれは仏蘭西フランスの……まあ、女優と云うんだろう。ニニイと云う名でとおっているがね。――それよりもあのじいさんを見ろよ。」
「あの爺さん」は僕等のとなりに両手に赤葡萄酒あかぶどうしゅさかずきを暖め、バンドの調子に合せては絶えず頭を動かしていた。それは満足そのものと云っても、少しも差支さしつかえない姿だった。僕は熱帯植物の中からしっきりなしに吹きつけて来るジャッズにはかなり興味を感じた。しかし勿論幸福らしい老人などには興味を感じなかった。
「あの爺さんは猶太ユダヤ人だがね。上海シャンハイにかれこれ三十年住んでいる。あんな奴は一体どう云う量見りょうけんなんだろう?」
「どう云う量見でもいじゃないか?」
「いや、決してくはないよ。僕などはもう支那に飽き飽きしている。」
「支那にじゃない。上海シャンハイにだろう。」
「支那にさ。北京ペキンにもしばらく滞在したことがある。……」
 僕はこう云う彼の不平をひやかさないわけにはかなかった。
「支那もだんだん亜米利加アメリカ化するかね?」
 彼は肩をそびやかし、しばらくはなんとも言わなかった。僕は後悔こうかいに近いものを感じた。のみならず気まずさをまぎらすために何か言わなければならぬことも感じた。
「じゃどこに住みたいんだ?」
「どこに住んでも、――ずいぶんまた方々に住んで見たんだがね。僕が今住んで見たいと思うのはソヴィエット治下ちか露西亜ロシアばかりだ。」
「それならば露西亜へ行けばいのに。君などはどこへでもかれるんだろう。」
 彼はもう一度黙ってしまった。それから、――僕はいまだにはっきりとその時の彼の顔を覚えている。彼は目を細めるようにし、突然僕も忘れていた万葉集まんようしゅうの歌をうたい出した。
「世の中をうしとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。」
 僕は彼の日本語の調子に微笑しないわけにはかなかった。が、妙に内心には感動しない訣にも行かなかった。
「あのじいさんは勿論だがね。ニニイさえ僕よりは仕合せだよ。何しろ君も知っている通り、……」
 僕は咄嗟とっさ快濶かいかつになった。
「ああ、ああ、聞かないでもわかっているよ。お前は『さまよえる猶太ユダヤ人』だろう。」
 彼はウヰスキイ炭酸たんさん一口ひとくち飲み、もう一度ふだんの彼自身に返った。
「僕はそんなに単純じゃない。詩人、画家、批評家、新聞記者、……まだある。息子むすこ、兄、独身者どくしんもの愛蘭土アイルランド人、……それから気質きしつ上のロマン主義者、人生観上の現実主義者、政治上の共産主義者……」
 僕等はいつか笑いながら、椅子いすを押しのけて立ち上っていた。
「それから彼女には情人じょうじんだろう。」
「うん、情人、……まだある。宗教上の無神論者、哲学上の物質主義者……」
 夜更よふけの往来はもやと云うよりも瘴気しょうきに近いものにこもっていた。それは街燈の光のせいか、妙にまた黄色きいろに見えるものだった。僕等は腕を組んだまま、二十五の昔と同じように大股おおまたにアスファルトを踏んで行った。二十五の昔と同じように――しかし僕はもう今ではどこまでも歩こうとは思わなかった。
「まだ君には言わなかったかしら、僕が声帯せいたいを調べて貰った話は?」
上海シャンハイでかい?」
「いや、ロンドンへ帰った時に。――僕は声帯を調べて貰ったら、世界的なバリトオンだったんだよ。」
 彼は僕の顔をのぞきこむようにし、何か皮肉に微笑していた。
「じゃ新聞記者などをしているよりも、……」
「勿論オペラ役者やくしゃにでもなっていれば、カルウソオぐらいには行っていたんだ。しかし今からじゃどうにもならない。」
「それは君の一生の損だね。」
「何、損をしたのは僕じゃない。世界中の人間が損をしたんだ。」
 僕等はもう船のの多い黄浦江こうほこうの岸を歩いていた。彼はちょっと歩みをとめ、あごで「見ろ」と云う合図あいずをした。もやの中にほのめいた水には白い小犬の死骸が一匹、ゆるい波に絶えずすられていた。そのまた小犬は誰の仕業しわざか、くびのまわりに花を持った一つづりの草をぶら下げていた。それは惨酷ざんこくな気がすると同時に美しい気がするのにも違いなかった。のみならず僕は彼がうたった万葉集まんようしゅうの歌以来、多少感傷主義に伝染していた。
「ニニイだね。」
「さもなければ僕の中の声楽家だよ。」
 彼はこう答えるが早いか、途方とほうもなく大きいくさめをした。

        五

 ニイスにいる彼の妹さんから久しぶりに手紙の来たためであろう。僕はつい二三日まえよる、夢の中に彼と話していた。それはどう考えても、初対面の時に違いなかった。カミンも赤あかと火を動かしていれば、そのまたかげも桃花心木マホガニイのテエブルや椅子いすうつっていた。僕は妙に疲労しながら、当然僕等のあいだに起る愛蘭土アイルランドの作家たちの話をしていた。しかし僕にのしかかって来る眠気ねむけと闘うのは容易ではなかった。僕は覚束おぼつかない意識のうちにこう云う彼の言葉を聞いたりした。
「I detest Bernard Shaw.」
 しかし僕は腰かけたまま、いつかうとうと眠ってしまった。すると、――おのずから目をました。はまだ明け切らずにいるのであろう。風呂敷ふろしきに包んだ電燈は薄暗い光を落している。僕はとこの上に腹這はらばいになり、妙な興奮をしずめるために「敷島しきしま」に一本火をつけて見た。が、夢の中に眠った僕が現在に目をましているのはどうも無気味ぶきみでならなかった。

(大正十五年十一月二十九日)




 



底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
   1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2004年3月8日修正
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