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彼(かれ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:41:36  点击:  切换到繁體中文



        四

 彼は六高へはいったのち、一年とたたぬうちに病人となり、叔父おじさんの家へ帰るようになった。病名は確かに腎臓結核じんぞうけっかくだった。僕は時々ビスケットなどを持ち、彼のいる書生部屋へ見舞いに行った。彼はいつもとこの上に細いひざいたまま、存外ぞんがい快濶かいかつに話したりした。しかし僕は部屋の隅に置いた便器を眺めずにはいられなかった。それは大抵たいてい硝子ガラスの中にぎらぎらする血尿けつにょうかしたものだった。
「こう云うからだじゃもう駄目だめだよ。とうてい牢獄ろうごく生活も出来そうもないしね。」
 彼はこう言って苦笑くしょうするのだった。
「バクニインなどは写真で見ても、たくましい体をしているからなあ。」
 しかし彼を慰めるものはまだ全然ないわけではなかった。それは叔父さんの娘に対する、極めて純粋な恋愛だった。彼は彼の恋愛を僕にも一度も話したことはなかった。が、ある日の午後、――ある花曇りに曇った午後、僕は突然彼の口から彼の恋愛を打ち明けられた。突然?――いや、必ずしも突然ではなかった。僕はあらゆる青年のように彼の従妹いとこを見かけた時から何か彼の恋愛に期待を持っていたのだった。
美代みよちゃんは今学校の連中と小田原おだわらへ行っているんだがね、僕はこのあいだ何気なにげなしに美代ちゃんの日記を読んで見たんだ。……」
 僕はこの「何気なしに」に多少の冷笑を加えたかった。が、勿論もちろん何も言わずに彼の話の先を待っていた。
「すると電車の中で知り合になった大学生のことが書いてあるんだよ。」
「それで?」
「それで僕は美代ちゃんに忠告しようかと思っているんだがね。……」
 僕はとうとう口をすべらし、こんな批評ひひょうを加えてしまった。
「それは矛盾むじゅんしているじゃないか? 君は美代ちゃんを愛してもい、美代ちゃんは他人を愛してはならん、――そんな理窟りくつはありはしないよ。ただ君の気もちとしてならば、それはまた別問題だけれども。」
 彼は明かに不快ふかいらしかった。が、僕の言葉には何も反駁はんばくを加えなかった。それから、――それから何を話したのであろう? 僕はただ僕自身も不快になったことを覚えている。それは勿論病人の彼を不快にしたことに対する不快だった。
「じゃ僕は失敬するよ。」
「ああ、じゃ失敬。」
 彼はちょっとうなずいたのち、わざとらしく気軽につけ加えた。
「何か本を貸してくれないか? 今度君が来る時でいから。」
「どんな本を?」
「天才の伝記か何かが善い。」
「じゃジァン・クリストフを持って来ようか?」
「ああ、何でも旺盛おうせいな本が善い。」
 僕はあきらめに近い心を持ち、弥生町やよいちょうの寄宿舎へ帰って来た。窓硝子ガラスの破れた自習室には生憎あいにく誰も居合せなかった。僕は薄暗い電燈のした独逸文法ドイツぶんぽうを復習した。しかしどうも失恋した彼に、――たとい失恋したにもせよ、とにかく叔父さんの娘のある彼に羨望せんぼうを感じてならなかった。

        五

 彼はかれこれ半年はんとしのち、ある海岸へ転地することになった。それは転地とは云うものの、大抵は病院に暮らすものだった。僕は学校の冬休みを利用し、はるばる彼を尋ねて行った。彼の病室は日当りの悪い、かぜの通る二階だった。彼はベッドに腰かけたまま、不相変あいかわらず元気に笑いなどした。が、文芸や社会科学のことはほとんど一言ひとことも話さなかった。
「僕はあの棕櫚しゅろの木を見る度に妙に同情したくなるんだがね。そら、あの上の葉っぱが動いているだろう。――」
 棕櫚しゅろの木はつい硝子ガラス窓の外に木末こずえの葉を吹かせていた。その葉はまた全体もらぎながら、こまかにけた葉の先々をほとんど神経的にふるわせていた。それは実際近代的なもの哀れを帯びたものに違いなかった。が、僕はこの病室にたった一人している彼のことを考え、出来るだけ陽気に返事をした。
「動いているね。何をくよくよ海べの棕櫚はさ。……」
「それから?」
「それでもうおしまいだよ。」
なんだつまらない。」
 僕はこう云う対話のうちにだんだん息苦いきぐるしさを感じ出した。
「ジァン・クリストフは読んだかい?」
「ああ、少し読んだけれども、……」
「読みつづける気にはならなかったの?」
「どうもあれは旺盛おうせいすぎてね。」
 僕はもう一度一生懸命に沈み勝ちな話を引き戻した。
「このあいだKが見舞いに来たってね。」
「ああ、日帰りでやって来たよ。生体解剖せいたいかいぼうの話や何かして行ったっけ。」
「不愉快なやつだね。」
「どうして?」
「どうしてってこともないけれども。……」
 僕等は夕飯ゆうはんをすませたのち、ちょうど風の落ちたのを幸い、海岸へ散歩に出かけることにした。太陽はとうに沈んでいた。しかしまだあたりは明るかった。僕等は低い松のえた砂丘さきゅうの斜面に腰をおろし、海雀うみすずめの二三羽飛んでいるのを見ながら、いろいろのことを話し合った。
「この砂はこんなにつめたいだろう。けれどもずっと手を入れて見給え。」
 僕は彼の言葉の通り、弘法麦こうぼうむぎれになった砂の中へ片手を差しこんで見た。するとそこには太陽の熱がまだかすかに残っていた。
「うん、ちょっと気味が悪いね。夜になってもやっぱりあたたかいかしら。」
「何、すぐにつめたくなってしまう。」
 僕はなぜかはっきりとこう云う対話を覚えている。それから僕等の半町ほど向うに黒ぐろとなごんでいた太平洋も。……

        六

 彼の死んだ知らせを聞いたのはちょうど翌年よくとしの旧正月だった。なんでものちに聞いた話によれば病院の医者や看護婦たちは旧正月をいわうために夜更よふけまで歌留多かるた会をつづけていた。彼はそのさわぎに眠られないのをいかり、ベッドの上に横たわったまま、おお声に彼等をしかりつけた、と同時に大喀血だいかっけつをし、すぐに死んだとか云うことだった。僕は黒いわくのついた一枚の葉書を眺めた時、悲しさよりもむしろはかなさを感じた。
「なおまた故人の所持したる書籍は遺骸と共に焼き棄て候えども、万一貴下より御貸与ごたいよの書籍もそのうちにまじり居り候せつ不悪あしからず御赦おゆるし下されたくそうろう。」
 これはその葉書の隅に肉筆で書いてある文句だった。僕はこう云う文句を読み、何冊かの本がほのおになって立ち昇る有様を想像した。勿論それ等の本の中にはいつか僕が彼に貸したジァン・クリストフの第一巻もまじっているのに違いなかった。この事実は当時の感傷的な僕には妙に象徴しょうちょうらしい気のするものだった。
 それから五六日たったのち、僕は偶然落ち合ったKと彼のことを話し合った。Kは不相変あいかわらず冷然としていたのみならず、巻煙草をくわえたまま、こんなことを僕に尋ねたりした。
「Xは女を知っていたかしら?」
「さあ、どうだか……」
 Kは僕を疑うようにじっと僕の顔を眺めていた。
「まあ、それはどうでもい。……しかしXが死んで見ると、何か君は勝利者らしい心もちも起って来はしないか?」
 僕はちょっと逡巡しゅんじゅんした。するとKは打ち切るように彼自身の問に返事をした。
「少くとも僕はそんな気がするね。」
 僕はそれ以来Kに会うことに多少の不安を感ずるようになった。

(大正十五年十一月十三日)




 



底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
   1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2004年3月10日修正
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