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河童(かっぱ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:24:50  点击:  切换到繁體中文



        十

「どうしたね? きょうはまた妙にふさいでいるじゃないか?」
 その火事のあった翌日です。僕は巻煙草まきたばこをくわえながら、僕の客間の椅子いすに腰をおろした学生のラップにこう言いました。実際またラップは右のあしの上へ左の脚をのせたまま、腐ったくちばしも見えないほど、ぼんやりゆかの上ばかり見ていたのです。
「ラップ君、どうしたね。」と言えば、[#この行、底本では『「ラップ君、どうしたねと言えば。」』(底本の注参照)]
「いや、なに、つまらないことなのですよ。――」
 ラップはやっと頭をあげ、悲しい鼻声を出しました。
「僕はきょう窓の外を見ながら、『おや虫取りすみれが咲いた』と何気なにげなしにつぶやいたのです。すると僕の妹は急に顔色を変えたと思うと、『どうせわたしは虫取り菫よ』と当たり散らすじゃありませんか? おまけにまた僕のおふくろもだいの妹贔屓びいきですから、やはり僕に食ってかかるのです。」
「虫取り菫が咲いたということはどうして妹さんには不快なのだね?」
「さあ、たぶんおすの河童をつかまえるという意味にでもとったのでしょう。そこへおふくろと仲悪い叔母おば喧嘩けんかの仲間入りをしたのですから、いよいよ大騒動になってしまいました。しかも年中酔っ払っているおやじはこの喧嘩を聞きつけると、たれかれの差別なしになぐり出したのです。それだけでも始末のつかないところへ僕の弟はそのあいだにおふくろの財布さいふを盗むが早いか、キネマか何かを見にいってしまいました。僕は……ほんとうに僕はもう、……」
 ラップは両手に顔をうずめ、何も言わずに泣いてしまいました。僕の同情したのはもちろんです。同時にまた家族制度に対する詩人のトックの軽蔑を思い出したのももちろんです。僕はラップの肩をたたき、一生懸命いっしょうけんめいに慰めました。
「そんなことはどこでもありがちだよ。まあ勇気を出したまえ。」
「しかし……しかしくちばしでも腐っていなければ、……」
「それはあきらめるほかはないさ。さあ、トック君のうちへでも行こう。」
「トックさんは僕を軽蔑けいべつしています。僕はトックさんのように大胆に家族を捨てることができませんから。」
「じゃクラバック君の家へ行こう。」
 僕はあの音楽会以来、クラバックにも友だちになっていましたから、とにかくこの大音楽家の家へラップをつれ出すことにしました。クラバックはトックに比べれば、はるかに贅沢ぜいたくに暮らしています。というのは資本家のゲエルのように暮らしているという意味ではありません。ただいろいろの骨董こっとうを、――タナグラの人形やペルシアの陶器を部屋へやいっぱいに並べた中にトルコ風の長椅子ながいすえ、クラバック自身の肖像画の下にいつも子どもたちと遊んでいるのです。が、きょうはどうしたのか両腕を胸へ組んだまま、苦い顔をしてすわっていました。のみならずそのまた足もとには紙屑かみくずが一面に散らばっていました。ラップも詩人トックといっしょにたびたびクラバックには会っているはずです。しかしこの容子ようすに恐れたとみえ、きょうは丁寧ていねいにお時宜じぎをしたなり、黙って部屋のすみに腰をおろしました。
「どうしたね? クラバック君。」
 僕はほとんど挨拶あいさつの代わりにこう大音楽家へ問いかけました。
「どうするものか? 批評家の阿呆あほうめ! 僕の抒情じょじょう詩はトックの抒情詩と比べものにならないと言やがるんだ。」
「しかし君は音楽家だし、……」
「それだけならば我慢がまんもできる。僕はロックに比べれば、音楽家の名に価しないと言やがるじゃないか?」
 ロックというのはクラバックとたびたび比べられる音楽家です。が、あいにく超人倶楽部クラブの会員になっていない関係上、僕は一度も話したことはありません。もっとも嘴のり上がった、一癖ひとくせあるらしい顔だけはたびたび写真でも見かけていました。
「ロックも天才には違いない。しかしロックの音楽は君の音楽にあふれている近代的情熱を持っていない。」
「君はほんとうにそう思うか?」
「そう思うとも。」
 するとクラバックは立ち上がるが早いか、タナグラの人形をひっつかみ、いきなりゆかの上にたたきつけました。ラップはよほど驚いたとみえ、何か声をあげて逃げようとしました。が、クラバックはラップや僕にはちょっと「驚くな」という手真似てまねをした上、今度は冷やかにこう言うのです。
「それは君もまた俗人のように耳を持っていないからだ。僕はロックを恐れている。……」
「君が? 謙遜家けんそんかを気どるのはやめたまえ。」
「だれが謙遜家けんそんかを気どるものか? 第一君たちに気どって見せるくらいならば、批評家たちの前に気どって見せている。僕は――クラバックは天才だ。その点ではロックを恐れていない。」
「では何を恐れているのだ?」
「何か正体しょうたいの知れないものを、――言わばロックを支配している星を。」
「どうも僕にはに落ちないがね。」
「ではこう言えばわかるだろう。ロックは僕の影響を受けない。が、僕はいつのにかロックの影響を受けてしまうのだ。」
「それは君の感受性の……。」
「まあ、聞きたまえ。感受性などの問題ではない。ロックはいつも安んじてあいつだけにできる仕事をしている。しかし僕はいらいらするのだ。それはロックの目から見れば、あるいは一歩の差かもしれない。けれども僕には十マイルも違うのだ。」
「しかし先生の英雄曲は……」
 クラバックは細い目をいっそう細め、いまいましそうにラップをにらみつけました。
「黙りたまえ。君などに何がわかる? 僕はロックを知っているのだ。ロックに平身低頭する犬どもよりもロックを知っているのだ。」
「まあ少し静かにしたまえ。」
「もし静かにしていられるならば、……僕はいつもこう思っている。――僕らの知らない何ものかは僕を、――クラバックをあざけるためにロックを僕の前に立たせたのだ。哲学者のマッグはこういうことをなにもかも承知している。いつもあの色硝子いろガラスのランタアンの下に古ぼけた本ばかり読んでいるくせに。」
「どうして?」
「この近ごろマッグの書いた『阿呆あほうの言葉』という本を見たまえ。――」
 クラバックは僕に一冊の本を渡す――というよりも投げつけました。それからまた腕を組んだまま、つっけんどんにこう言い放ちました。
「じゃきょうは失敬しよう。」
 僕はしょげ返ったラップといっしょにもう一度往来へ出ることにしました。人通りの多い往来は相変わらず毛生欅ぶなの並み木のかげにいろいろの店を並べています。僕らはなんということもなしに黙って歩いてゆきました。するとそこへ通りかかったのは髪の長い詩人のトックです。トックは僕らの顔を見ると、腹の袋から手巾ハンケチを出し、何度も額をぬぐいました。
「やあ、しばらく会わなかったね。僕はきょうは久しぶりにクラバックを尋ねようと思うのだが、……」
 僕はこの芸術家たちを喧嘩けんかさせては悪いと思い、クラバックのいかにも不機嫌ふきげんだったことを婉曲えんきょくにトックに話しました。
「そうか。じゃやめにしよう。なにしろクラバックは神経衰弱だからね。……僕もこの二三週間は眠られないのに弱っているのだ。」
「どうだね、僕らといっしょに散歩をしては?」
「いや、きょうはやめにしよう。おや!」
 トックはこう叫ぶが早いか、しっかり僕の腕をつかみました。しかもいつか体中からだじゅうに冷汗を流しているのです。
「どうしたのだ?」
「どうしたのです?」
「なにあの自動車の窓の中から緑いろのさるが一匹首を出したように見えたのだよ。」
 僕は多少心配になり、とにかくあの医者のチャックに診察してもらうように勧めました。しかしトックはなんと言っても、承知する気色けしきさえ見せません。のみならず何か疑わしそうに僕らの顔を見比べながら、こんなことさえ言い出すのです。
「僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきっと忘れずにいてくれたまえ。――ではさようなら。チャックなどはまっぴらごめんだ。」
 僕らはぼんやりたたずんだまま、トックの後ろ姿を見送っていました。僕らは――いや、「僕ら」ではありません。学生のラップはいつの間にか往来のまん中にあしをひろげ、しっきりない自動車や人通りを股目金まためがねにのぞいているのです。僕はこの河童かっぱも発狂したかと思い、驚いてラップを引き起こしました。
常談じょうだんじゃない。何をしている?」
 しかしラップは目をこすりながら、意外にも落ち着いて返事をしました。
「いえ、あまり憂鬱ゆううつですから、さかさまに世の中をながめて見たのです。けれどもやはり同じことですね。」

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