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片恋(かたこい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:22:38  点击:  切换到繁體中文

底本: 芥川龍之介全集2
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1986(昭和61)年10月28日
入力に使用: 1996年(平成8)7月15日第11刷
校正に使用: 1996年(平成8)7月15日第11刷


底本の親本: 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月

 

(一しょに大学を出た親しい友だちの一人に、ある夏の午後京浜電車けいひんでんしゃの中でったら、こんな話を聞かせられた。)
 この間、社の用でYへ行った時の話だ。向うで宴会を開いて、僕を招待しょうだいしてくれた事がある。何しろYの事だから、床の間には石版摺せきばんずりの乃木のぎ大将の掛物がかかっていて、その前に造花ぞうか牡丹ぼたんが生けてあると云う体裁だがね。夕方から雨がふったのと、人数にんずも割に少かったのとで、思ったよりや感じがよかった。その上二階にも一組宴会があるらしかったが、これも幸いと土地がらに似ず騒がない。所が君、お酌人しゃくにんの中に――
 君も知っているだろう。僕らが昔よく飲みに行ったUの女中に、おとくって女がいた。鼻の低い、額のつまった、あすこじゅうでの茶目だった奴さ。あいつが君、はいっているんだ。お座敷着で、お銚子を持って、ほかの朋輩ほうばいなみに乙につんとすましてさ。はじめは僕も人ちがいかと思ったが、そばへ来たのを見ると、お徳にちがいない。もの云う度に、あごをしゃくる癖も、昔の通りだ。――僕は実際無常を感じてしまったね。あれでも君、元は志村しむら岡惚おかぼれだったんじゃないか。
 志村の大将、その時分は大真面目おおまじめで、青木堂へ行っちゃペパミントの小さなびんを買って来て、「甘いから飲んでごらん。」などと、やったものさ。酒も甘かったろうが、志村も甘かったよ。
 そのお徳が、今じゃこんな所で商売をしているんだ。シカゴにいる志村が聞いたら、どんな心もちがするだろう。そう思って、声をかけようとしたが、遠慮した。――お徳の事だ。前には日本橋に居りましたくらいな事は、云っていないものじゃない。
 すると、向うから声をかけた。「ずいぶんしばらくだわねえ。わたしがUにいる時分にお眼にかかった切りなんだから。あなたはちっともお変りにならない。」なんて云う。――お徳の奴め、もう来た時から酔っていたんだ。
 が、いくら酔っていても、久しぶりじゃあるし、志村の一件があるもんだから、おおいに話がもてたろう。すると君、ほかの連中が気を廻わすのを義理だと心得た顔色で、わいわい騒ぎ立てたんだ。何しろ主人役が音頭おんどうをとって、逐一白状に及ばない中は、席を立たせないと云うんだから、始末が悪い。そこで、僕は志村のペパミントの話をして、「これは私の親友にひじを食わせた女です。」――莫迦莫迦ばかばかしいが、そう云った。主人役がもう年配でね。僕は始から、叔父さんにつれられて、お茶屋へ上ったと云う格だったんだ。
 すると、その臂と云うんで、またどっと来たじゃないか。ほかの芸者まで一しょになって、お徳のやつをひやかしたんだ。
 ところが、お徳こと福竜のやつが、承知しない。――福竜がよかったろう。八犬伝の竜の講釈の中に、「優楽自在なるを福竜と名づけたり」と云う所がある。それがこの福竜は、大に優楽不自在なんだから可笑おかしい。もっともこれは余計な話だがね。――その承知しない云い草が、また大に論理的ロジカルなんだ。「志村さんが私にお惚れになったって、私の方でも惚れなければならないと云う義務はござんすまい。」さ。
 それから、まだあるんだ。「それがそうでなかったら、私だって、とうの昔にもっと好い月日があったんです。」
 それが、所謂片恋の悲しみなんだそうだ。そうしてその揚句にエキザンプルでも挙げる気だったんだろう。お徳のやつめ、妙なのろけを始めたんだ。君に聞いて貰おうと思うのはそののろけ話さ。どうせのろけだから、面白い事はない。
 あれは不思議だね。夢の話と色恋の話くらい、聞いていてつまらないものはない。
(そこで自分は、「それは当人以外に、面白さが通じないからだよ。」と云った。「じゃ小説に書くのにも、夢と色恋とはむずかしい訳だね。」「少くとも夢なんぞは感覚的なだけに、なおそうらしいね。小説の中に出て来る夢で、ほんとうの夢らしいのはほとんど一つもないくらいだ。」「だが、恋愛小説の傑作は沢山あるじゃないか。」「それだけまた、後世こうせいにのこらなかった愚作の数も、思いやられると云うものさ。」)
 そう話がわかっていれば、大に心づよい。どうせこれもその愚作中の愚作だよ。なんしろお徳の口吻こうふんを真似ると、「まあ私の片恋って云うようなもの」なんだからね。精々そのつもりで、聞いてくれ給え。
 お徳の惚れた男と云うのは、役者でね。あいつがまだ浅草田原町たわらまちの親の家にいた時分に、公園で見初みそめたんだそうだ。こう云うと、君は宮戸座みやとざ常盤座ときわざの馬の足だと思うだろう。ところがそうじゃない。そもそも、日本人だと思うのが間違いなんだ。毛唐けとうの役者でね。何でも半道はんどうだと云うんだから、笑わせる。
 その癖、お徳はその男の名前も知らなければ、居所いどころも知らない。それ所か、国籍さえわからないんだ。女房持か、独り者か――そんな事は勿論、くだけ、野暮やぼさ。可笑しいだろう。いくら片恋だって、あんまり莫迦ばかげている。僕たちが若竹へ通った時分だって、よしんば語り物は知らなかろうが、先方は日本人で、芸名昇菊しょうぎくくらいな事は心得ていたもんだ。――そう云って、僕がからかったら、お徳の奴、むきになって、「そりゃ私だって、知りたかったんです。だけど、わからないんだから、仕方がないじゃありませんか。なんしろ幕の上で遇うだけなんですもの。」と云う。
 幕の上では、妙だよ。幕の中でと云うなら、わかっているがね。そこでいろいろ聞いて見ると、その恋人なるものは、活動写真に映る西洋の曾我そがなんだそうだ。これには、僕も驚いたよ。成程なるほど幕の上でには、ちがいない。
 ほかの連中は、悪いおちだと思ったらしい。中には、「へん、いやにおひゃらかしやがる。」なんて云った人もある。船着だから、人気にんきが荒いんだ。が、見たところ、どうもお徳が嘘をついているとも思われない。もっとも眼は大分だいぶとろんこだったがね。
「毎日行きたくっても、そうはお小遣こづかいがつづかないでしょう。だから私、やっと一週に一ぺんずつ行って見たんです。」――これはいいが、そのあとが振っている。「一度なんか、阿母おっかさんにねだってやっとやって貰うと、満員で横の隅の所にしか、はいれないんでしょう。そうすると、折角その人の顔が映っても、妙に平べったくしか見えないんでしょう。私、かなしくって、かなしくって。」――前掛まえかけを顔へあてて、泣いたって云うんだがね。そりゃ恋人の顔が、幕なりにぺちゃんこに見えちゃ、かなしかろうさ。これには、僕も同情したよ。
「何でも、十二三度その人がちがった役をするのを見たんです。顔の長い、痩せた、ひげのある人でした。大抵黒い、あなたの着ていらっしゃるような服を着ていましたっけ。」――僕は、モオニングだったんだ。さっきでりているから、機先を制して、「似ていやしないか。」って云うと、すまして、「もっといい男」さ。「もっといい男」はきびしいじゃないか。

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