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影(かげ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:21:16  点击:  切换到繁體中文



 鎌倉。
 一時間ののち陳彩ちんさいは、彼等夫婦の寝室の戸へ、盗賊とうぞくのように耳を当てながら、じっと容子をうかがっている彼自身を発見した。寝室の外の廊下には、息のつまるような暗闇が、一面にあたりを封じていた。そのうちにただ一点、かすかな明りが見えるのは、戸の向うの電燈の光が、鍵穴かぎあなを洩れるそれであった。
 陳はほとんど破裂しそうな心臓の鼓動こどうを抑えながら、ぴったり戸へ当てた耳に、全身の注意を集めていた。が、寝室の中からは何の話し声も聞えなかった。その沈黙がまた陳にとっては、一層堪え難い呵責かしゃくであった。彼は目の前の暗闇の底に、停車場からここへ来る途中の、思いがけない出来事が、もう一度はっきり見えるような気がした。
 ……枝をかわした松の下には、しっとり砂に露の下りた、細い路が続いている。大空に澄んだ無数の星も、その松の枝のかさなったここへは、滅多めったに光を落して来ない。が、海の近い事は、まばらすすきに流れて来る潮風しおかぜが明かに語っている。陳はさっきからたった一人、と共に強くなった松脂まつやに※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においを嗅ぎながら、こう云う寂しい闇の中に、注意深い歩みを運んでいた。
 その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手をかして見た。それは彼の家の煉瓦塀れんがべいが、何歩か先に黒々と、現われて来たからばかりではない、その常春藤きづたおおわれた、古風な塀の見えるあたりに、忍びやかな靴の音が、突然聞え出したからである。
 が、いくらすかして見ても、松や芒の闇が深いせいか、肝腎かんじんの姿は見る事が出来ない。ただ、咄嗟とっさに感づいたのは、その足音がこちらへ来ずに、向うへ行くらしいと云う事である。
莫迦ばかな、この路を歩く資格は、おればかりにある訳じゃあるまいし。」
 陳はこう心の中に、早くも疑惑を抱き出した彼自身を叱ろうとした。が、この路は彼の家の裏門の前へ出るほかには、どこへも通じていない筈である。して見れば、――と思う刹那せつなに陳の耳には、その裏門の戸の開く音が、折から流れて来た潮風と一しょに、かすかながらも伝わって来た。
可笑おかしいぞ。あの裏門には今朝けさ見た時も、錠がかかっていた筈だが。」
 そう思うと共に陳彩ちんさいは、獲物を見つけた猟犬りょうけんのように、油断なくあたりへ気を配りながら、そっとその裏門の前へ歩み寄った。が、裏門の戸はしまっている。力一ぱい押して見ても、動きそうな気色けしきも見えないのは、いつのにか元の通り、錠が下りてしまったらしい。陳はその戸にりかかりながら、膝をうずめた芒の中に、しばらくは茫然ぼうぜんたたずんでいた。
「門が明くような音がしたのは、おれの耳のまよいだったかしら。」
 が、さっきの足音は、もうどこからも聞えて来ない。常春藤きづたむらがった塀の上には、火の光もささない彼の家が、ひっそりと星空にそびえている。すると陳の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。何がそんなに悲しかったか、それは彼自身にもはっきりしない。ただそこにたたずんだまま、とぼしい虫のに聞き入っていると、自然と涙が彼の頬へ、冷やかに流れ始めたのである。
房子ふさこ。」
 陳はほとんどうめくように、なつかしい妻の名前を呼んだ。
 するとその途端とたんである。高い二階のへやの一つには、意外にもまぶしい電燈がともった。
「あの窓は、――あれは、――」
 陳はきわどい息を呑んで、手近の松の幹をとらえながら、延び上るように二階の窓を見上げた。窓は、――二階の寝室の窓は、硝子ガラス戸をすっかり明け放った向うに、明るい室内をのぞかせている。そうしてそこから流れる光が、塀の内に茂った松のこずえを、ぼんやり暗い空に漂わせている。
 しかし不思議はそればかりではない。やがてその二階の窓際には、こちらへ向いたらしい人影が一つ、おぼろげな輪廓りんかくを浮き上らせた。生憎あいにく電燈の光がうしろにあるから、顔かたちは誰だか判然しない。が、ともかくもその姿が、女でない事だけは確かである。陳は思わず塀の常春藤きづたつかんで、倒れかかる体を支えながら、苦しそうに切れ切れな声を洩らした。
「あの手紙は、――まさか、――房子だけは――」
 一瞬間の後陳彩は、安々やすやす塀を乗り越えると、庭の松の間をくぐりくぐり、首尾しゅびよく二階の真下にある、客間の窓際へ忍び寄った。そこには花も葉も露に濡れた、水々しい夾竹桃きょうちくとうの一むらが、………
 陳はまっ暗な外の廊下ろうかに、乾いた唇を噛みながら、一層嫉妬しっと深い聞き耳を立てた。それはこの時戸の向うに、さっき彼が聞いたような、用心深い靴の音が、二三度ゆかひびいたからであった。
 足響あしおとはすぐに消えてしまった。が、興奮した陳の神経には、ほどなく窓をしめる音が、鼓膜こまくを刺すように聞えて来た。その後には、――また長い沈黙があった。
 その沈黙はたちまちのように、色を失った陳の額へ、冷たい脂汗あぶらあせを絞り出した。彼はわなわなふるえる手に、戸のノッブを探り当てた。が、戸に錠の下りている事は、すぐにそのノッブが教えてくれた。
 すると今度はくしかピンかが、突然ばたりと落ちる音が聞えた。しかしそれを拾い上げる音は、いくら耳を澄ましていても、なぜか陳には聞えなかった。
 こう云う物音はびとひとつ、文字通り陳の心臓を打った。陳はその度に身を震わせながら、それでも耳だけは剛情にも、じっと寝室の戸へ押しつけていた。しかし彼の興奮が極度に達している事は、時々彼があたりへ投げる、気違いじみた視線にも明かであった。
 苦しい何秒かが過ぎた後、戸の向うからはかすかながら、ため息をつく声が聞えて来た。と思うとすぐに寝台しんだいの上へも、誰かが静にあがったようであった。
 もしこんな状態が、もう一分続いたなら、陳は戸の前に立ちすくんだまま、失心してしまったかも知れなかった。が、この時戸から洩れる蜘蛛くもの糸ほどの朧げな光が、天啓のように彼の眼をとらえた。陳は咄嗟とっさゆかうと、ノッブの下にある鍵穴かぎあなから、食い入るような視線を室内へ送った。
 その刹那に陳の眼の前には、永久にのろわしい光景が開けた。…………

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