横浜。
日華洋行の宿直室には、長椅子に寝ころんだ書記の今西が、余り明くない電燈の下に、新刊の雑誌を拡げていた。が、やがて手近の卓子の上へ、その雑誌をばたりと抛ると、大事そうに上衣の隠しから、一枚の写真をとり出した。そうしてそれを眺めながら、蒼白い頬にいつまでも、幸福らしい微笑を浮べていた。
写真は陳彩の妻の房子が、桃割れに結った半身であった。
鎌倉。
下り終列車の笛が、星月夜の空に上った時、改札口を出た陳彩は、たった一人跡に残って、二つ折の鞄を抱えたまま、寂しい構内を眺めまわした。すると電燈の薄暗い壁側のベンチに坐っていた、背の高い背広の男が一人、太い籐の杖を引きずりながら、のそのそ陳の側へ歩み寄った。そうして闊達に鳥打帽を脱ぐと、声だけは低く挨拶をした。
「陳さんですか? 私は吉井です。」
陳はほとんど無表情に、じろりと相手の顔を眺めた。
「今日は御苦労でした。」
「先ほど電話をかけましたが、――」
「その後何もなかったですか?」
陳の語気には、相手の言葉を弾き除けるような力があった。
「何もありません。奥さんは医者が帰ってしまうと、日暮までは婆やを相手に、何か話して御出ででした。それから御湯や御食事をすませて、十時頃までは蓄音機を御聞きになっていたようです。」
「客は一人も来なかったですか?」
「ええ、一人も。」
「君が監視をやめたのは?」
「十一時二十分です。」
吉井の返答もてきぱきしていた。
「その後終列車まで汽車はないですね。」
「ありません。上りも、下りも。」
「いや、難有う。帰ったら里見君に、よろしく云ってくれ給え。」
陳は麦藁帽の庇へ手をやると、吉井が鳥打帽を脱ぐのには眼もかけず、砂利を敷いた構外へ大股に歩み出した。その容子が余り無遠慮すぎたせいか、吉井は陳の後姿を見送ったなり、ちょいと両肩を聳やかせた。が、すぐまた気にも止めないように、軽快な口笛を鳴らしながら、停車場前の宿屋の方へ、太い籐の杖を引きずって行った。
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