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影(かげ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:21:16  点击:  切换到繁體中文



 鎌倉かまくら
 陳彩ちんさいの家の客間にも、レエスの窓掛けを垂れた窓の内には、晩夏おそなつの日の暮が近づいて来た。しかし日の光は消えたものの、窓掛けの向うに煙っている、まだ花盛りの夾竹桃きょうちくとうは、この涼しそうな部屋の空気に、快い明るさをただよわしていた。
 壁際かべぎわ籐椅子とういすった房子ふさこは、膝の三毛猫みけねこをさすりながら、その窓の外の夾竹桃へ、物憂ものうそうな視線を遊ばせていた。
旦那様だんなさまは今晩も御帰りにならないのでございますか?」
 これはその側の卓子テーブルの上に、紅茶の道具を片づけている召使いの老女の言葉であった。
「ああ、今夜もまた寂しいわね。」
「せめて奥様が御病気でないと、心丈夫でございますけれども――」
「それでも私の病気はね、ただ神経が疲れているのだって、今日も山内やまのうち先生がそうおっしゃったわ。二三日よく眠りさえすれば、――あら。」
 老女は驚いた眼を主人へ挙げた。すると子供らしい房子の顔には、なぜか今までにない恐怖の色が、ありありとひとみみなぎっていた。
「どう遊ばしました? 奥様。」
「いいえ、何でもないのよ。何でもないのだけれど、――」
 房子は無理に微笑しようとした。
「誰か今あすこの窓から、そっとこの部屋の中を、――」
 しかし老女が一瞬の後に、その窓から外をのぞいた時には、ただ微風にそよいでいる夾竹桃の植込みが、人気ひとけのない庭の芝原をかして見せただけであった。
「まあ、気味の悪い。きっとまた御隣の別荘べっそうの坊ちゃんが、悪戯いたずらをなすったのでございますよ。」
「いいえ、御隣の坊ちゃんなんぞじゃなくってよ。何だか見た事があるような――そうそう、いつかばあやと長谷はせへ行った時に、私たちの後をついて来た、あの鳥打帽をかぶっている、若い人のような気がするわ。それとも――私の気のせいだったかしら。」
 房子は何か考えるように、ゆっくり最後の言葉を云った。
「もしあの男でしたら、どう致しましょう。旦那様はお帰りになりませんし、――何ならじいやでも警察へ、そう申しにやって見ましょうか。」
「まあ、婆やは臆病ね。あの人なんぞ何人来たって、私はちっともこわくないわ。けれどももし――もし私の気のせいだったら――」
 老女は不審ふしんそうにまばたきをした。
「もし私の気のせいだったら、私はこのまま気違きちがいになるかも知れないわね。」
「奥様はまあ、御冗談ごじょうだんばっかり。」
 老女は安心したように微笑しながら、また紅茶の道具を始末し始めた。
「いいえ、婆やは知らないからだわ。私はこの頃一人でいるとね、きっと誰かが私の後に立っているような気がするのよ。立って、そうして私の方をじっと見つめているような――」
 房子はこう云いかけたまま、彼女自身の言葉に引き入れられたのか、急に憂鬱ゆううつな眼つきになった。
 ……電燈を消した二階の寝室には、かすかな香水の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においのする薄暗がりが拡がっている。ただ窓掛けを引かない窓だけが、ぼんやりあかるんで見えるのは、月が出ているからに違いない。現にその光を浴びた房子は、独り窓の側にたたずみながら、眼の下の松林を眺めている。
 夫は今夜も帰って来ない。召使いたちはすでに寝静まった。窓の外に見える庭の月夜も、ひっそりと風を落している。その中に鈍い物音が、間遠まどおに低く聞えるのは、今でも海が鳴っているらしい。
 房子はしばらく立ち続けていた。すると次第に不思議な感覚が、彼女の心に目ざめて来た。それは誰かが後にいて、じっとその視線を彼女の上に集注しているような心もちである。
 が、寝室の中には彼女のほかに、誰も人のいる理由はない。もしいるとすれば、――いや、戸には寝る前に、ちゃんとじょうおろしてある。ではこんな気がするのは、――そうだ。きっと神経が疲れているからに相違ない。彼女は薄明うすあかるい松林を見下しながら、何度もこう考え直そうとした。しかし誰かが見守っていると云う感じは、いくら一生懸命に打ち消して見ても、だんだん強くなるばかりである。
 房子はとうとう思い切って、うしろを振り返って見た。が、果して寝室の中には、れた三毛猫の姿さえ見えない。やはり人がいるような気がしたのは、病的な神経の仕業しわざであった。――と思ったのはしかし言葉通り、ほんの一瞬の間だけである。房子はすぐにまた前の通り、何か眼に見えない物が、この部屋を満たした薄暗がりのどこかに、ひそんでいるような心もちがした。しかし以前よりさらに堪えられない事には、今度はその何物かの眼が、窓を後にした房子の顔へ、まともに視線を焼きつけている。
 房子は全身の戦慄せんりつと闘いながら、手近の壁へ手をのばすと、咄嗟とっさに電燈のスウィッチをひねった。と同時に見慣れた寝室は、月明りにまじった薄暗がりを払って、頼もしい現実へ飛び移った。寝台しんだい西洋※(「巾+厨」、第4水準2-8-91)せいようがや、洗面台、――今はすべてが昼のような光の中に、嬉しいほどはっきり浮き上っている。その上それが何一つ、彼女が陳と結婚した一年以前と変っていない。こう云う幸福な周囲を見れば、どんなに気味の悪いまぼろしも、――いや、しかし怪しい何物かは、まぶしい電燈の光にも恐れず、寸刻もたゆまない凝視の眼を房子の顔に注いでいる。彼女は両手に顔を隠すが早いか、無我夢中に叫ぼうとした。が、なぜか声が立たない。その時彼女の心の上には、あらゆる経験を超越した恐怖が、……
 房子は一週間以前の記憶から、吐息といきと一しょに解放された。その拍子にひざの三毛猫は、彼女の膝を飛び下りると、毛並みの美しい背を高くして、快さそうに欠伸あくびをした。
「そんな気は誰でも致すものでございますよ。じいやなどはいつぞや御庭の松へ、はさみをかけて居りましたら、まっ昼間ぴるま空に大勢の子供の笑い声が致したとか、そう申して居りました。それでもあの通り気が違う所か、御用の暇には私へ小言こごとばかり申して居るじゃございませんか。」
 老女は紅茶のぼんもたげながら、子供を慰めるようにこう云った。それを聞くと房子のほおには、始めて微笑らしい影がさした。
「それこそ御隣の坊ちゃんが、おいたをなすったのに違いないわ。そんな事にびっくりするようじゃ、爺やもやっぱり臆病なのね。――あら、おしゃべりをしている内に、とうとう日が暮れてしまった。今夜は旦那だんな様が御帰りにならないから、好いようなものだけれど、――御湯は? 婆や。」
「もうよろしゅうございますとも。何ならちょいと私が御加減を見て参りましょうか。」
「好いわ。すぐにはいるから。」
 房子はようやく気軽そうに、壁側かべぎわ籐椅子とういすから身を起した。
「また今夜も御隣の坊ちゃんたちは、花火を御揚げなさるかしら。」
 老女が房子のあとから、静に出て行ってしまったあとには、もう夾竹桃も見えなくなった、薄暗い空虚の客間が残った。すると二人に忘れられた、あの小さな三毛猫は、急に何か見つけたように、一飛びに戸口へ飛んで行った。そうしてまるで誰かの足に、体をりつけるような身ぶりをした。が、部屋に拡がった暮色の中には、その三毛猫の二つの眼が、無気味な燐光りんこうを放つほかに、何もいるようなけはいは見えなかった。……………

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