芥川龍之介全集4 |
ちくま文庫、筑摩書房 |
1987(昭和62)年1月27日 |
1996(平成8)年7月15日第8刷 |
筑摩全集類聚版芥川龍之介全集 |
筑摩書房 |
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月 |
横浜。
日華洋行の主人陳彩は、机に背広の両肘を凭せて、火の消えた葉巻を啣えたまま、今日も堆い商用書類に、繁忙な眼を曝していた。
更紗の窓掛けを垂れた部屋の内には、不相変残暑の寂寞が、息苦しいくらい支配していた。その寂寞を破るものは、ニスののする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。
書類が一山片づいた後、陳はふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。
「私の家へかけてくれ給え。」
陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。
「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――房子かい?――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。――帰れないか?――とても汽車に間に合うまい。――じゃ頼むよ。――何? 医者に来て貰った?――それは神経衰弱に違いないさ。よろしい。さようなら。」
陳は受話器を元の位置に戻すと、なぜか顔を曇らせながら、肥った指に燐寸を摺って、啣えていた葉巻を吸い始めた。
……煙草の煙、草花の、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧き上る調子外れのカルメンの音楽、――陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の麦酒を前にしながら、たった一人茫然と、卓に肘をついている。彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、煽風機も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。
女はまだ見た所、二十を越えてもいないらしい。それが壁へ貼った鏡を後に、絶えず鉛筆を動かしながら、忙しそうにビルを書いている。額の捲き毛、かすかな頬紅、それから地味な青磁色の半襟。――
陳は麦酒を飲み干すと、徐に大きな体を起して、帳場机の前へ歩み寄った。
「陳さん。いつ私に指環を買って下すって?」
女はこう云う間にも、依然として鉛筆を動かしている。
「その指環がなくなったら。」
陳は小銭を探りながら、女の指へ顋を向けた。そこにはすでに二年前から、延べの金の両端を抱かせた、約婚の指環が嵌っている。
「じゃ今夜買って頂戴。」
女は咄嗟に指環を抜くと、ビルと一しょに彼の前へ投げた。
「これは護身用の指環なのよ。」
カッフェの外のアスファルトには、涼しい夏の夜風が流れている。陳は人通りに交りながら、何度も町の空の星を仰いで見た。その星も皆今夜だけは、……
誰かの戸を叩く音が、一年後の現実へ陳彩の心を喚び返した。
「おはいり。」
その声がまだ消えない内に、ニスののする戸がそっと明くと、顔色の蒼白い書記の今西が、無気味なほど静にはいって来た。
「手紙が参りました。」
黙って頷いた陳の顔には、その上今西に一言も、口を開かせない不機嫌さがあった。今西は冷かに目礼すると、一通の封書を残したまま、また前のように音もなく、戸の向うの部屋へ帰って行った。
戸が今西の後にしまった後、陳は灰皿に葉巻を捨てて、机の上の封書を取上げた。それは白い西洋封筒に、タイプライタアで宛名を打った、格別普通の商用書簡と、変る所のない手紙であった。しかしその手紙を手にすると同時に、陳の顔には云いようのない嫌悪の情が浮んで来た。
「またか。」
陳は太い眉を顰めながら、忌々しそうに舌打ちをした。が、それにも関らず、靴の踵を机の縁へ当てると、ほとんど輪転椅子の上に仰向けになって、紙切小刀も使わずに封を切った。
「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、再三御忠告……貴下が今日に至るまで、何等断乎たる処置に出でられざるは……されば夫人は旧日の情夫と共に、日夜……日本人にして且珈琲店の給仕女たりし房子夫人が、……支那人たる貴下のために、万斛の同情無き能わず候。……今後もし夫人を離婚せられずんば、……貴下は万人の嗤笑する所となるも……微衷不悪御推察……敬白。貴下の忠実なる友より。」
手紙は力なく陳の手から落ちた。
……陳は卓子に倚りかかりながら、レエスの窓掛けを洩れる夕明りに、女持ちの金時計を眺めている。が、蓋の裏に彫った文字は、房子のイニシアルではないらしい。
「これは?」
新婚後まだ何日も経たない房子は、西洋箪笥の前に佇んだまま、卓子越しに夫へ笑顔を送った。
「田中さんが下すったの。御存知じゃなくって? 倉庫会社の――」
卓子の上にはその次に、指環の箱が二つ出て来た。白天鵞絨の蓋を明けると、一つには真珠の、他の一つには土耳古玉の指環がはいっている。
「久米さんに野村さん。」
今度は珊瑚珠の根懸けが出た。
「古風だわね。久保田さんに頂いたのよ。」
その後から――何が出て来ても知らないように、陳はただじっと妻の顔を見ながら、考え深そうにこんな事を云った。
「これは皆お前の戦利品だね。大事にしなくちゃ済まないよ。」
すると房子は夕明りの中に、もう一度あでやかに笑って見せた。
「ですからあなたの戦利品もね。」
その時は彼も嬉しかった。しかし今は……
陳は身ぶるいを一つすると、机にかけていた両足を下した。それは卓上電話のベルが、突然彼の耳を驚かしたからであった。
「私。――よろしい。――繋いでくれ給え。」
彼は電話に向いながら、苛立たしそうに額の汗を拭った。
「誰?――里見探偵事務所はわかっている。事務所の誰?――吉井君?――よろしい。報告は?――何が来ていた?――医者?――それから?――そうかも知れない。――じゃ停車場へ来ていてくれ給え。――いや、終列車にはきっと帰るから。――間違わないように。さようなら。」
受話器を置いた陳彩は、まるで放心したように、しばらくは黙然と坐っていた。が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルの鈕を押した。
書記の今西はその響に応じて、心もち明けた戸の後から、痩せた半身をさし延ばした。
「今西君。鄭君にそう云ってくれ給え。今夜はどうか私の代りに、東京へ御出でを願いますと。」
陳の声はいつの間にか、力のある調子を失っていた。今西はしかし例の通り、冷然と目礼を送ったまま、すぐに戸の向うへ隠れてしまった。
その内に更紗の窓掛けへ、おいおい当って来た薄曇りの西日が、この部屋の中の光線に、どんよりした赤味を加え始めた。と同時に大きな蠅が一匹、どこからここへ紛れこんだか、鈍い羽音を立てながら、ぼんやり頬杖をついた陳のまわりに、不規則な円を描き始めた。…………
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