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開化の良人(かいかのおっと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:16:28  点击:  切换到繁體中文


「私が始めて三浦の細君に会ったのは、京城から帰って間もなく、彼の大川端おおかわばたの屋敷へ招かれて、一夕の饗応きょうおうに預った時の事です。聞けば細君はかれこれ三浦と同年配だったそうですが、小柄ででもあったせいか、誰の眼にも二つ三つ若く見えたのに相違ありません。それが眉の濃い、血色あざやかな丸顔で、その晩は古代蝶鳥こだいちょうとりの模様か何かに繻珍しゅちんの帯をしめたのが、当時のことばを使って形容すれば、いかにも高等な感じを与えていました。が、三浦のアムウルの相手として、私が想像に描いていた新夫人に比べると、どこかその感じにそぐわない所があるのです。もっともこれはどこかと云うくらいな事で、私自身にもその理由がはっきりとわかっていた訳じゃありません。殊に私の予想が狂うのは、今度三浦に始めて会った時を始めとして、度々経験した事ですから、勿論その時もただふとそう思っただけで、別段それだから彼の結婚を祝する心が冷却したと云う訳でもなかったのです。それ所か、あかるい空気洋燈ランプの光を囲んで、しばらく膳に向っているあいだに、彼の細君の溌剌はつらつたる才気は、すっかり私を敬服させてしまいました。俗に打てば響くと云うのは、恐らくあんな応対おうたいの仕振りの事を指すのでしょう。『奥さん、あなたのような方は実際日本より、仏蘭西フランスにでも御生れになればよかったのです。』――とうとう私は真面目まじめな顔をして、こんな事を云う気にさえなりました。すると三浦もさかずきを含みながら、『それ見るがい。おれがいつも云う通りじゃないか。』と、からかうように横槍よこやりを入れましたが、そのからかうような彼のことばが、刹那のあいだ私の耳に面白くない響を伝えたのは、果して私の気のせいばかりだったでしょうか。いや、この時半ば怨ずる如く、ななめに彼を見た勝美かつみ夫人の眼が、余りに露骨ななまめかしさを裏切っているように思われたのは、果して私の邪推ばかりだったでしょうか。とにかく私はこの短い応答の間に、彼等二人の平生が稲妻のように閃くのを、感じない訳には行かなかったのです。今思えばあれは私にとって、三浦の生涯の悲劇に立ち合った最初の幕開まくあきだったのですが、当時は勿論私にしても、ほんの不安の影ばかりがきわどく頭をかすめただけで、後はまた元の如く、三浦を相手に賑なさかずきのやりとりを始めました。ですからその夜は文字通り一夕のかんを尽した後で、彼の屋敷を辞した時も、大川端おおかわばたの川風に俥上の微醺びくんを吹かせながら、やはり私は彼のために、所謂いわゆるアムウルのある結婚』に成功した事を何度もひそかに祝したのです。
「ところがそれから一月ばかり経って(元より私はその間も、度々彼等夫婦とは往来ゆききし合っていたのです。)ある日私が友人のあるドクトルに誘われて、丁度於伝仮名書おでんのかなぶみをやっていた新富座しんとみざを見物に行きますと、丁度向うの桟敷さじきの中ほどに、三浦の細君が来ているのを見つけました。その頃私は芝居へ行く時は、必ず眼鏡オペラグラスを持って行ったので、勝美かつみ夫人もそのまる硝子ガラスの中に、燃え立つような掛毛氈かけもうせんを前にして、始めて姿を見せたのです。それが薔薇ばらかと思われる花を束髪そくはつにさして、地味な色の半襟の上に、白い二重顋ふたえあごを休めていましたが、私がその顔に気がつくと同時に、向うも例のなまめかしい眼をあげて、軽く目礼を送りました。そこで私も眼鏡オペラグラスを下しながら、その目礼に答えますと、三浦の細君はどうしたのか、また慌てて私の方へ会釈えしゃくを返すじゃありませんか。しかもその会釈が、前のそれに比べると、遥にうやうやしいものなのです。私はやっと最初の目礼が私に送られたのではなかったと云う事に気がつきましたから、思わず周囲の高土間たかどまを見まわして、その挨拶の相手を物色しました。するとすぐ隣のます派手はでな縞の背広を着た若い男がいて、これも勝美夫人の会釈の相手をさがす心算つもりだったのでしょう。※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においの高い巻煙草をくわえながら、じろじろ私たちの方をうかがっていたのと、ぴったり視線が出会いました。私はその浅黒い顔に何か不快な特色を見てとったので、咄嗟とっさに眼をらせながらまた眼鏡オペラグラスをとり上げて、見るともなく向うの桟敷さじきを見ますと、三浦の細君のいるますには、もう一人女が坐っているのです。楢山ならやま女権論者じょけんろんしゃ――と云ったら、あるいは御聞き及びになった事がないものでもありますまい。当時相当な名声のあった楢山と云う代言人だいげんにんの細君で、盛に男女同権を主張した、とかく如何いかがわしい風評が絶えた事のない女です。私はその楢山夫人が、黒の紋付の肩を張って、金縁の眼鏡めがねをかけながら、まるで後見こうけんと云う形で、三浦の細君と並んでいるのを眺めると、何と云う事もなく不吉な予感におびやかされずにはいられませんでした。しかもあの女権論者は、骨立った顔に薄化粧をして、絶えず襟を気にしながら、私たちのいる方へ――と云うよりは恐らく隣の縞の背広の方へ、意味ありげな眼を使っているのです。私はこの芝居見物の一日が、舞台の上の菊五郎きくごろう左団次さだんじより、三浦の細君と縞の背広と楢山の細君とを注意するのに、より多く費されたと云ったにしても、決して過言じゃありません。それほど私はにぎやか下座げざはやしと桜の釣枝つりえだとの世界にいながら、心は全然そう云うものと没交渉な、いまわしい色彩を帯びた想像に苦しめられていたのです。ですから中幕なかまくがすむと間もなく、あの二人の女連おんなづれが向うの桟敷さじきにいなくなった時、私は実際肩が抜けたようなほっとした心もちを味わいました。勿論女の方はいなくなっても、縞の背広はやはり隣の桝で、しっきりなく巻煙草をふかしながら、時々私の方へ眼をやっていましたが、みっつの巴の二つがなくなった今になっては、前ほど私もその浅黒い顔が、気にならないようになっていたのです。
「と云うと私がひどく邪推じゃすい深いように聞えますが、これはその若い男の浅黒い顔だちが、妙に私の反感を買ったからで、どうも私とその男との間には、――あるいは私たちとその男との間には、始めからある敵意が纏綿てんめんしているような気がしたのです。ですからその一月とたたない中に、あの大川おおかわへ臨んだ三浦の書斎で、彼自身その男を私に紹介してくれた時には、まるでなぞでもかけられたような、当惑に近い感情を味わずにはいられませんでした。何でも三浦の話によると、これは彼の細君の従弟いとこだそうで、当時××紡績会社でも歳の割には重用されている、敏腕の社員だと云う事です。成程そう云えば一つ卓子テエブルの紅茶を囲んで、多曖たわいもない雑談を交換しながら、巻煙草をふかせている間でさえ、彼が相当な才物さいぶつだと云う事はすぐに私にもわかりました。が、何も才物だからと云って、その人間に対する好悪こうおは、勿論変る訳もありません。いや、私は何度となく、すでに細君の従弟だと云う以上、芝居で挨拶を交すくらいな事は、さらに不思議でも何でもないじゃないかと、こう理性に訴えて、出来るだけその男に接近しようとさえ努力して見ました。しかし私がその努力にやっと成功しそうになると、彼は必ず音を立てて紅茶をすすったり、巻煙草の灰を無造作むぞうさ卓子テエブルの上へ落したり、あるいはまた自分の洒落しゃれ声高こわだかに笑ったり、何かしら不快な事をしでかして、再び私の反感を呼び起してしまうのです。ですから彼が三十分ばかり経って、会社の宴会とかへ出るために、いとまを告げて帰った時には、私は思わず立ち上って、部屋の中の俗悪な空気を新たにしたい一心から、川に向った仏蘭西窓フランスまどを一ぱいに大きく開きました。すると三浦は例の通り、薔薇ばらの花束を持った勝美かつみ夫人の額の下に坐りながら、『ひどく君はあの男が嫌いじゃないか。』と、たしなめるような声で云うのです。私『どうも虫が好かないのだから仕方がない。あれがまた君の細君の従弟だとは不思議だな。』三浦『不思議――だと云うと?』私『何。あんまり人間の種類が違いすぎるからさ。』三浦はしばらくのあいだ黙って、もう夕暮の光がただよっている大川の水面をじっと眺めていましたが、やがて『どうだろう。その中に一つつりにでも出かけて見ては。』と、何のとっつきもない事を云い出しました。が、私は何よりもあの細君の従弟から、話題の離れるのが嬉しかったので、『よかろう。釣なら僕は外交より自信がある。』と、急に元気よく答えますと、三浦も始めて微笑しながら、『外交よりか、じゃ僕は――そうさな、先ずアムウルよりは自信があるかも知れない。』私『すると君の細君以上の獲物えものがありそうだと云う事になるが。』三浦『そうしたらまた君にうらやんで貰うからいじゃないか。』私はこう云う三浦のことばの底に、何か針の如く私の耳を刺すものがあるのに気がつきました。が、夕暗の中にすかして見ると、彼は相不変あいかわらずひややかな表情を浮べたまま、仏蘭西窓の外の水の光を根気よく眺めているのです。私『ところで釣にはいつ出かけよう。』三浦『いつでも君の都合つごうの好い時にしてくれ給え。』私『じゃ僕の方から手紙を出す事にしよう。』そこで私はおもむろに赤いモロッコ皮の椅子いすを離れながら、無言のまま、彼と握手を交して、それからこの秘密臭い薄暮はくぼの書斎を更にうす暗い外の廊下へ、そっと独りで退きました。すると思いがけなくその戸口には、誰やら黒い人影が、まるで中の容子ようすでもぬすみ聴いていたらしく、静にたたずんでいたのです。しかもその人影は、私の姿が見えるや否や、咄嗟とっさに間近く進み寄って、『あら、もう御帰りになるのでございますか。』と、なまめかしい声をかけるじゃありませんか。私は息苦しい一瞬の後、今日も薔薇を髪にさした勝美かつみ夫人をひややかに眺めながら、やはり無言のまま会釈えしゃくをして、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそうくるまの待たせてある玄関の方へ急ぎました。この時の私の心もちは、私自身さえ意識出来なかったほど、混乱を極めていたのでしょう。私はただ、私のくるま両国橋りょうごくばしの上を通る時も、絶えず口の中でつぶやいていたのは、「ダリラ」と云う名だった事を記憶しているばかりなのです。

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