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温泉だより(おんせんだより)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:14:25  点击:  切换到繁體中文

底本: 芥川龍之介全集6
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1987(昭和62)年3月24日
入力に使用: 1993(平成5)年2月25日第6刷


底本の親本: 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月

 

……わたしはこの温泉宿やどにもう一月ひとつきばかり滞在たいざいしています。が、肝腎かんじんの「風景」はまだ一枚も仕上しあげません。まず湯にはいったり、講談本を読んだり、狭い町を散歩したり、――そんなことを繰り返して暮らしているのです。我ながらだらしのないのにはあきれますが。(作者註。このあいだに桜の散っていること、鶺鴒せきれいの屋根へ来ること、射的しやてきに七円五十銭使ったこと、田舎芸者いなかげいしゃのこと、安来節やすきぶし芝居に驚いたこと、蕨狩わらびがりに行ったこと、消防の演習を見たこと、蟇口がまぐちを落したことなどをしるせる十数ぎょうあり。)それから次手ついでに小説じみた事実談を一つ報告しましょう。もっともわたしは素人しろうとですから、小説になるかどうかはわかりません。ただこの話を聞いた時にちょうど小説か何か読んだような心もちになったと言うだけのことです。どうかそのつもりで読んで下さい。
 なんでも明治三十年代に萩野半之丞はぎのはんのじょうと言う大工だいくが一人、この町の山寄やまよりに住んでいました。萩野半之丞と言う名前だけ聞けば、いかなる優男やさおとこかと思うかも知れません。しかし身のたけ六尺五寸、体重三十七貫と言うのですから、太刀山たちやまにも負けない大男だったのです。いや、恐らくは太刀山も一籌いっちゅうするくらいだったのでしょう。現に同じ宿やどの客の一人、――「な」の字さんと言う(これは国木田独歩くにきだどっぽの使った国粋的こくすいてき省略法に従ったのです。)薬種問屋やくしゅどいやの若主人は子供心にも大砲おおづつよりは大きいと思ったと言うことです。同時にまた顔は稲川いながわにそっくりだと思ったと言うことです。
 半之丞は誰に聞いて見ても、ごく人のい男だった上に腕も相当にあったと言うことです。けれども半之丞に関する話はどれも多少可笑おかしいところを見ると、あるいはあらゆる大男なみ総身そうみ智慧ちえが廻り兼ねと言うおもむきがあったのかも知れません。ちょっと本筋へはいる前にその一例を挙げておきましょう。わたしの宿の主人の話によれば、いつかこがらしはげしい午後にこの温泉町を五十ばかり焼いた地方的大火のあった時のことです。半之丞はちょうど一里ばかり離れた「か」の字村のある家へ建前たてまえか何かに行っていました。が、この町が火事だと聞くが早いか、尻を端折はしょも惜しいように「お」の字街道かいどうへ飛び出したそうです。するとある農家の前に栗毛くりげの馬が一匹つないである。それを見た半之丞はあとことわればいとでも思ったのでしょう。いきなりその馬にまたがって遮二無二しゃにむに街道を走り出しました。そこまでは勇ましかったのに違いありません。しかし馬は走り出したと思うと、たちまち麦畑へ飛びこみました。それから麦畑をぐるぐる廻る、かぎの手に大根畑だいこんばたけを走り抜ける、蜜柑山みかんやまをまっすぐりる、――とうとうしまいにはいもの穴の中へ大男の半之丞を振り落したまま、どこかへ行ってしまいました。こう言う災難にったのですから、勿論火事などにはに合いません。のみならず半之丞は傷だらけになり、うようにこの町へ帰って来ました。なんでもあとで聞いて見れば、それは誰も手のつけられぬ盲馬めくらうまだったと言うことです。
 ちょうどこの大火のあった時から二三年になるでしょう、「お」の字町の「た」の字病院へ半之丞の体を売ったのは。しかし体を売ったと云っても、何も昔風に一生奉公いっしょうぼうこうの約束をしたわけではありません。ただ何年かたって死んだのち、死体の解剖かいぼうを許す代りに五百円の金をもらったのです。いや、五百円の金を貰ったのではない、二百円は死後に受けとることにし、差し当りは契約書けいやくしょと引き換えに三百円だけ貰ったのです。ではその死後に受けとる二百円は一体誰の手へ渡るのかと言うと、なんでも契約書の文面によれば、「遺族または本人の指定したるもの」に支払うことになっていました。実際またそうでもしなければ、残金二百円云々うんぬん空文くうぶんおわるほかはなかったのでしょう、何しろ半之丞は妻子は勿論、親戚さえ一人ひとりもなかったのですから。
 当時の三百円は大金たいきんだったでしょう。少くとも田舎大工いなかだいくの半之丞には大金だったのに違いありません。半之丞はこの金を握るが早いか、腕時計うでどけいを買ったり、背広せびろこしらえたり、「青ペン」のおまつと「お」の字町へ行ったり、たちまち豪奢ごうしゃきわめ出しました。「青ペン」と言うのは亜鉛とたん屋根に青ペンキを塗った達磨茶屋だるまぢゃやです。当時は今ほど東京風にならず、のきには糸瓜へちまなども下っていたそうですから、女も皆田舎いなかじみていたことでしょう。が、お松は「青ペン」でもとにかく第一の美人になっていました。もっともどのくらいの美人だったか、それはわたしにはわかりません。ただ鮨屋すしや鰻屋うなぎやを兼ねた「お」の字亭のおかみの話によれば、色の浅黒い、髪の毛のちぢれた、小がらな女だったと言うことです。
 わたしはこの婆さんにいろいろの話を聞かせて貰いました。就中なかんずく妙に気の毒だったのはいつも蜜柑みかんを食っていなければ手紙一本書けぬと言う蜜柑中毒の客の話です。しかしこれはまたいつか報告する機会を待つことにしましょう。ただ半之丞の夢中になっていたお松の猫殺しの話だけはつけ加えておかなければなりません。お松は何でも「三太さんた」と云う烏猫からすねこを飼っていました。ある日その「三太」が「青ペン」のおかみ一張羅いっちょうらの上へ粗忽そそうをしたのです。ところが「青ペン」のお上と言うのは元来猫が嫌いだったものですから、苦情を言うの言わないのではありません。しまいには飼い主のお松にさえ、さんざん悪態あくたいをついたそうです。するとお松は何も言わずに「三太」をふところに入れたまま、「か」の字川の「き」の字橋へ行き、青あおとよどんだふちの中へ烏猫をほうりこんでしまいました。それから、――それから先は誇張かも知れません。が、とにかく婆さんの話によれば、発頭人ほっとうにんのお上は勿論「青ペン」じゅうの女の顔を蚯蚓腫みみずばれだらけにしたと言うことです。
 半之丞の豪奢をきわめたのは精々せいぜい一月ひとつき半月はんつきだったでしょう。何しろ背広は着て歩いていても、くつの出来上って来た時にはもうそのだいも払えなかったそうです。しもの話もほんとうかどうか、それはわたしには保証出来ません。しかしわたしの髪を刈りに出かける「ふ」の字軒の主人の話によれば、靴屋は半之丞の前に靴を並べ、「では棟梁とうりょう元値もとねに買っておくんなさい。これが誰にでも穿ける靴ならば、わたしもこんなことを言いたくはありません。が、棟梁、おまえさんの靴は仁王様におうさま草鞋わらじも同じなんだから」と頭をげて頼んだと言うことです。けれども勿論半之丞は元値にも買うことは、出来なかったのでしょう。この町の人々には誰に聞いて見ても、半之丞の靴をはいているのは一度も見かけなかったと言っていますから。
 けれども半之丞は靴屋の払いに不自由したばかりではありません。それから一月とたたないうちに今度はせっかくの腕時計や背広までも売るようになって来ました。ではその金はどうしたかと言えば、前後の分別ふんべつも何もなしにお松につぎこんでしまったのです。が、お松も半之丞に使わせていたばかりではありません。やはり「お」の字のおかみの話によれば、元来この町の達磨茶屋だるまぢゃやの女は年々夷講えびすこうの晩になると、客をとらずに内輪うちわばかりで三味線しゃみせんいたり踊ったりする、そのまえの算段さえ一時はお松には苦しかったそうです。しかし半之丞もお松にはよほど夢中になっていたのでしょう。何しろお松は癇癪かんしゃくを起すと、半之丞のむなぐらをとって引きずり倒し、麦酒罎ビールびんなぐりなどもしたものです。けれども半之丞はどう言う目にっても、たいていはかえって機嫌きげんをとっていました。もっとも前後にたった一度、お松がある別荘番のせがれと「お」の字町へ行ったとか聞いた時には別人のようにおこったそうです。これもあるいは幾分か誇張があるかも知れません。けれどもばあさんの話したままを書けば、半之丞は(作者註。田園的でんえんてき嫉妬しっとの表白としてさもあらんとは思わるれども、このあいだに割愛せざるべからざる数行すうぎょうあり)と言うことです。

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