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お律と子等と(おりつとこらと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:10:47  点击:  切换到繁體中文

底本: 芥川龍之介全集4
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1987(昭和62)年1月27日
入力に使用: 1993(平成5)年12月25日第6刷
校正に使用: 1996(平成8)年7月15日第8刷


底本の親本: 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月

 

   一

 雨降りの午後、今年中学を卒業した洋一よういちは、二階の机に背をまるくしながら、北原白秋きたはらはくしゅう風の歌を作っていた。すると「おい」と云う父の声が、突然彼の耳を驚かした。彼は倉皇そうこうと振り返る暇にも、ちょうどそこにあった辞書の下に、歌稿を隠す事を忘れなかった。が、幸い父の賢造けんぞうは、夏外套なつがいとうをひっかけたまま、うす暗い梯子はしごの上り口へ胸までのぞかせているだけだった。
「どうもおりつ容態ようだいが思わしくないから、慎太郎しんたろうの所へ電報を打ってくれ。」
「そんなに悪いの?」
 洋一は思わず大きな声を出した。
「まあ、ふだんが達者だから、急にどうと云う事もあるまいがね、――慎太郎へだけ知らせた方が――」
 洋一は父の言葉を奪った。
戸沢とざわさんは何だって云うんです?」
「やっぱり十二指腸の潰瘍かいようだそうだ。――心配はなかろうって云うんだが。」
 賢造は妙に洋一と、視線の合う事を避けたいらしかった。
「しかしあしたは谷村博士たにむらはかせに来て貰うように頼んで置いた。戸沢さんもそう云うから、――じゃ慎太郎の所を頼んだよ。宿所はお前が知っているね。」
「ええ、知っています。――お父さんはどこかへ行くの?」
「ちょいと銀行へ行って来る。――ああ、下に浅川あさかわ叔母おばさんが来ているぜ。」
 賢造の姿が隠れると、洋一には外の雨の音が、急に高くなったような心もちがした。愚図愚図ぐずぐずしている場合じゃない――そんな事もはっきり感じられた。彼はすぐに立ち上ると、真鍮しんちゅうの手すりに手を触れながら、どしどし梯子はしごを下りて行った。
 まっすぐに梯子を下りた所が、ぎっしり右左の棚の上に、メリヤス類のボオル箱を並べた、手広い店になっている。――その店先の雨明あまあかりの中に、パナマ帽をかぶった賢造は、こちらへうしろを向けたまま、もう入口に直した足駄あしだへ、片足下している所だった。
旦那だんな工場こうばから電話です。今日きょうあちらへ御見えになりますか、伺ってくれろと申すんですが………」
 洋一が店へ来ると同時に、電話に向っていた店員が、こう賢造の方へ声をかけた。店員はほかにも四五人、金庫の前や神棚の下に、主人を送り出すと云うよりは、むしろ主人の出て行くのを待ちでもするような顔をしていた。
「きょうは行けない。あした行きますってそう云ってくれ。」
 電話の切れるのが合図あいずだったように、賢造は大きな洋傘こうもりを開くと、さっさと往来へ歩き出した。その姿がちょいとの間、浅く泥をいたアスファルトの上に、かすかな影を落して行くのが見えた。
神山かみやまさんはいないのかい?」
 洋一は帳場机に坐りながら、店員の一人の顔を見上げた。
「さっき、何だか奥の使いに行きました。――りょうさん。どこだか知らないかい?」
「神山さんか? I don't know ですな。」
 そう答えた店員は、上りがまちにしゃがんだまま、あとは口笛を鳴らし始めた。
 その間に洋一は、そこにあった頼信紙へ、せっせと万年筆を動かしていた。ある地方の高等学校へ、去年の秋入学した兄、――彼よりも色の黒い、彼よりもふとった兄の顔が、彼には今も頭のどこかに、ありあり浮んで見えるような気がした。「ハハワルシ、スグカエレ」――彼ははじめこう書いたが、すぐにまた紙をいて、「ハハビョウキ、スグカエレ」と書き直した。それでも「ワルシ」と書いた事が、何か不吉な前兆ぜんちょうのように、頭にこびりついて離れなかった。
「おい、ちょいとこれを打って来てくれないか?」
 やっと書き上げた電報を店員の一人に渡したのち、洋一は書き損じた紙を噛み噛み、店のうしろにある台所へ抜けて、晴れた日も薄暗い茶のへ行った。茶の間には長火鉢の上の柱に、ある毛糸屋の広告を兼ねた、大きな日暦ひごよみが懸っている。――そこに髪を切った浅川の叔母が、しきりと耳掻みみかきを使いながら、忘れられたように坐っていた。それが洋一の足音を聞くと、やはり耳掻きを当てがったまま、始終ただれている眼をもたげた。
今日こんにちは。お父さんはもうお出かけかえ?」
「ええ、今し方。――お母さんにも困りましたね。」
「困ったねえ、私は何も名のつくような病気じゃないと思っていたんだよ。」
 洋一は長火鉢の向うに、いやいや落着かないひざを据えた。ふすま一つ隔てた向うには、大病の母が横になっている。――そう云う意識がいつもよりも、一層この昔風な老人の相手を苛立いらだたしいものにさせるのだった。叔母はしばらく黙っていたが、やがて額で彼を見ながら、
「おきぬちゃんが今来るとさ。」と云った。
「姉さんはまだ病気じゃないの?」
「もう今日は好いんだとさ。何、またいつもの鼻っ風邪かぜだったんだよ。」
 浅川の叔母の言葉には、軽い侮蔑ぶべつを帯びた中に、かえって親しそうな調子があった。三人きょうだいがある内でも、おりつの腹を痛めないお絹が、一番叔母には気に入りらしい。それには賢造の先妻が、叔母の身内みうちだと云う理由もある。――洋一は誰かに聞かされた、そんな話を思い出しながら、しばらくのあいだ不承不承ふしょうぶしょうに、一昨年いっさくねんある呉服屋へ縁づいた、病気勝ちな姉のうわさをしていた。
しんちゃんの所はどうおしだえ? お父さんは知らせた方がいとか云ってお出でだったけれど。」
 その噂が一段落着いた時、叔母は耳掻きの手をやめると、思い出したようにこう云った。
「今、電報を打たせました。今日きょう中にゃまさか届くでしょう。」
「そうだねえ。何も京大阪と云うんじゃあるまいし、――」
 地理に通じない叔母の返事は、心細いくらい曖昧あいまいだった。それが何故なぜか唐突と、洋一の内に潜んでいたある不安を呼び醒ました。兄は帰って来るだろうか?――そう思うと彼は電報に、もっと大仰おおぎょうな文句を書いても、好かったような気がし出した。母は兄に会いたがっている。が、兄は帰って来ない。その内に母は死んでしまう。すると姉や浅川の叔母が、親不孝だと云って兄を責める。――こんな光景も一瞬間、はっきり眼の前に見えるような気がした。
「今日届けば、あしたは帰りますよ。」
 洋一はいつか叔母よりも、彼自身に気休めを云い聞かせていた。
 そこへちょうど店の神山かみやまが、汗ばんだひたいを光らせながら、足音をぬすむようにはいって来た。なるほどどこかへ行った事は、そであまじみの残っている縞絽しまろの羽織にも明らかだった。
「行って参りました。どうも案外待たされましてな。」
 神山は浅川の叔母に一礼してから、ふところに入れて来た封書を出した。
「御病人の方は、少しも御心配には及ばないとか申して居りました。追っていろいろ詳しい事は、その中に書いてありますそうで――」
 叔母はその封書を開く前に、まずの強そうな眼鏡めがねをかけた。封筒の中には手紙のほかにも、半紙に一の字を引いたのが、四つ折のままはいっていた。
「どこ? 神山さん、この太極堂たいきょくどうと云うのは。」
 洋一よういちはそれでも珍しそうに、叔母の読んでいる手紙を覗きこんだ。
「二町目の角に洋食屋がありましょう。あの露路ろじをはいった左側です。」
「じゃ君の清元きよもとの御師匠さんの近所じゃないか?」
「ええ、まあそんな見当です。」
 神山はにやにや笑いながら、時計のひもをぶら下げた瑪瑙めのう印形いんぎょうをいじっていた。
「あんな所にうらなしゃなんぞがあったかしら。――御病人は南枕みなみまくらにせらるべく候か。」
「お母さんはどっち枕だえ?」
 叔母は半ばたしなめるように、老眼鏡の眼を洋一へ挙げた。
東枕ひがしまくらでしょう。この方角が南だから。」
 多少心もちのあかるくなった洋一は、顔は叔母の方へ近づけたまま、手はたもとの底にある巻煙草の箱を探っていた。
「そら、そこに東枕にてもよろしいと書いてありますよ。――神山さん。一本上げようか? ほうるよ。失敬。」
「こりゃどうも。E・C・Cですな。じゃ一本頂きます――。もうほかに御用はございませんか? もしまたございましたら、御遠慮なく――」
 神山は金口きんぐちを耳にはさみながら、急に夏羽織の腰をもたげて、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそう店の方へ退こうとした。その途端に障子が明くと、くび湿布しっぷを巻いた姉のおきぬが、まだセルのコオトも脱がず、果物くだものの籠を下げてはいって来た。
「おや、お出でなさい。」
「降りますのによくまた、――」
 そう云う言葉が、ほとんど同時に、叔母と神山との口から出た。お絹は二人に会釈えしゃくをしながら、手早くコオトを脱ぎ捨てると、がっかりしたように横坐よこずわりになった。そのあいだに神山は、彼女の手から受け取った果物の籠をそこへ残して、気忙きぜわしそうに茶の間を出て行った。果物の籠には青林檎あおりんごやバナナが綺麗きれいにつやつやと並んでいた。
「どう? お母さんは。――御免なさいよ。電車がそりゃこむもんだから。」
 お絹はやはり横坐りのまま、器用に泥だらけの白足袋しろたびを脱いだ。洋一はその足袋を見ると、丸髷まるまげった姉の身のまわりに、まだ往来の雨のしぶきが、感ぜられるような心もちがした。
「やっぱりおなかが痛むんでねえ。――熱もまだ九度くどからあるんだとさ。」
 叔母は易者えきしゃの手紙をひろげたなり、神山と入れ違いに来た女中の美津みつと、茶を入れる仕度にいそがしかった。
「あら、だって電話じゃ、昨日きのうより大変好さそうだったじゃありませんか? もっとも私は出なかったんですけれど、――誰? 今日電話をかけたのは。――洋ちゃん?」
「いいえ、僕じゃない。神山さんじゃないか?」
「さようでございます。」
 これは美津みつが茶をすすめながら、そっとつけ加えた言葉だった。
「神山さん?」
 お絹ははすはに顔をしかめて、長火鉢の側へすり寄った。
「何だねえ。そんな顔をして。――お前さんの所はみんな御達者かえ?」
「ええ、おかげ様で、――叔母さんの所でも皆さん御丈夫ですか?」
 そんな対話を聞きながら、巻煙草をくわえた洋一は、ぼんやり柱暦はしらごよみを眺めていた。中学を卒業して以来、彼には何日なんにちと云う記憶はあっても、何曜日かは終始忘れている。――それがふと彼の心に、寂しい気もちを与えたのだった。その上もう一月すると、ほとんど受ける気のしない入学試験がやって来る。入学試験に及第しなかったら、………
「美津がこの頃は、大へん女ぶりを上げたわね。」
 姉の言葉が洋一には、急にはっきり聞えたような気がした。が、彼は何も云わずに、金口きんぐちをふかしているばかりだった。もっとも美津はその時にはとうにもう台所へさがっていた。
「それにあの人は何と云っても、男好きのする顔だから、――」
 叔母はやっと膝の上の手紙や老眼鏡を片づけながら、さげすむらしい笑いかたをした。するとお絹も妙な眼をしたが、これはすぐに気を変えて、
「何? 叔母さん、それは。」と云った。
「今神山さんに墨色すみいろを見て来て貰ったんだよ。――洋ちゃん、ちょいとお母さんを見て来ておくれ。さっきよく休んでお出でだったけれど、――」
 ひどく厭な気がしていた彼は金口を灰に突き刺すが早いか、叔母や姉の視線を逃れるように、早速長火鉢の前から立ち上った。そうしてふすま一つ向うの座敷へ、わざと気軽そうにはいって行った。
 そこは突き当りの硝子障子ガラスしょうじそとに、狭い中庭をかせていた。中庭には太い冬青もちの樹が一本、手水鉢ちょうずばちに臨んでいるだけだった。麻の掻巻かいまきをかけたおりつ氷嚢ひょうのうを頭に載せたまま、あちら向きにじっと横になっていた。そのまた枕もとには看護婦が一人、膝の上にひろげた病床日誌へ近眼の顔をすりつけるように、せっせと万年筆を動かしていた。
 看護婦は洋一の姿を見ると、ちょいとこびのある目礼をした。洋一はその看護婦にも、はっきり異性を感じながら、妙に無愛想ぶあいそう会釈えしゃくを返した。それから蒲団ふとんすそをまわって、母の顔がよく見える方へ坐った。
 お律は眼をつぶっていた。生来薄手うすでに出来た顔が一層今日はやつれたようだった。が、洋一の差しのぞいた顔へそっと熱のある眼をあけると、ふだんの通りかすかに頬笑ほほえんで見せた。洋一は何だか叔母や姉と、いつまでも茶のに話していた事がすまないような心もちになった。お律はしばらく黙っていてから、
「あのね」とさも大儀たいぎそうに云った。
 洋一はただうなずいて見せた。その間も母の熱臭いのがやはり彼には不快だった。しかしお律はそう云ったぎり、何ともあとを続けなかった。洋一はそろそろ不安になった。遺言ゆいごん、――と云う考えも頭へ来た。
「浅川の叔母さんはまだいるでしょう?」
 やっと母は口を開いた。
「叔母さんもいるし、――今し方姉さんも来た。」
「叔母さんにね、――」
「叔母さんに用があるの?」
「いいえ、叔母さんに梅川うめがわうなぎをとって上げるの。」
 今度は洋一が微笑した。
「美津にそう云ってね。好いかい?――それでおしまい。」
 お律はこう云い終ると、頭の位置を変えようとした。その拍子に氷嚢ひょうのうが辷り落ちた。洋一は看護婦の手を借りずに、元通りそれを置き直した。するとなぜか※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたの裏が突然熱くなるような気がした。「泣いちゃいけない。」――彼は咄嗟とっさにそう思った。が、もうその時は小鼻の上に涙のたまるのを感じていた。
莫迦ばかだね。」
 母はかすかにつぶやいたまま、疲れたようにまた眼をつぶった。
 顔を赤くした洋一は、看護婦の見る眼を恥じながら、すごすご茶のへ帰って来た。帰って来ると浅川の叔母おばが、肩越しに彼の顔を見上げて、
「どうだえ? お母さんは。」と声をかけた。
「目がさめています。」
「目はさめているけれどさ。」
 叔母はお絹と長火鉢越しに、顔を見合せたらしかった。姉は上眼うわめを使いながら、かんざしまげの根をいていたが、やがてその手を火鉢へやると、
「神山さんが帰って来た事は云わなかったの?」と云った。
「云わない。姉さんが行って云うと好いや。」
 洋一は襖側ふすまぎわに立ったなり、ゆるんだ帯をしめ直していた。どんな事があってもお母さんを死なせてはならない。どんな事があっても――そう一心に思いつめながら、…………

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