現代日本文學大系 43 芥川龍之介集 |
筑摩書房 |
1968(昭和43)年8月25日 |
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷 |
童 やあ、あそこへ妙な法師が来た。みんな見ろ。みんな見ろ。
鮓売の女 ほんたうに妙な法師ぢやないか? あんなに金鼓をたたきながら、何だか大声に喚いてゐる。……
薪売の翁 わしは耳が遠いせゐか、何を喚くのやら、さつぱりわからぬ。もしもし、あれは何と云うて居りますな?
箔打の男 あれは「阿弥陀仏よや。おおい。おおい」と云つてゐるのさ。
薪売の翁 ははあ、――では気違ひだな。
箔打の男 まあ、そんな事だらうよ。
菜売の媼 いやいや、難有い御上人かも知れぬ。私は今の間に拝んで置かう。
鮓売の女 それでも憎々しい顔ぢやないか? あんな顔をした御上人が何処の国にゐるものかね。
菜売の媼 勿体ない事を御云ひでない。罰でも当つたら、どうおしだえ?
童 気違ひやい。気違ひやい。
五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
犬 わんわん。わんわん。
物詣の女房 御覧なさいまし。可笑しい法師が参りました。
その伴 ああ云ふ莫迦者は女と見ると、悪戯をせぬとも限りません。幸ひ近くならぬ内に、こちらの路へ切れてしまひませう。
鋳物師 おや、あれは多度の五位殿ぢやないか?
水銀を商ふ旅人 五位殿だか何だか知らないが、あの人が急に弓矢を捨てて、出家してしまつたものだから、多度では大変な騒ぎだつたよ。
青侍 成程五位殿に違ひない。北の方や御子様たちは、さぞかし御歎きなすつたらう。
水銀を商ふ旅人 何でも奥方や御子供衆は、泣いてばかり御出でだとか云ふ事でした。
鋳物師 しかし妻子を捨ててまでも、仏門に入らうとなすつたのは、近頃健気な御志だ。
干魚を売る女 何の健気な事がありますものか? 捨てられた妻子の身になれば、弥陀仏でも女でも、男を取つたものには怨みがありますわね。
青侍 いや、大きにこれも一理窟だ。ははははは。
犬 わんわん。わんわん。
五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
馬上の武者 ええ、馬が驚くわ。どうどう。
櫃をおへる従者 気違ひには手がつけられませぬ。
老いたる尼 あの法師は御存知の通り、殺生好きな悪人でしたが、よく発心したものですね。
若き尼 ほんたうに恐しい人でございました。山狩や川狩をするばかりか、乞食なぞも遠矢にかけましたつけ。
手に足駄を穿ける乞食 好い時に遇つたものだ。もう二三日早かつたら、胴中に矢の穴が明いたかも知れぬ。
栗胡桃などを商ふ主 どうして又ああ云ふ殺伐な人が、頭を剃る気になつたのでせう?
老いたる尼 さあ、それは不思議ですが、やはり御仏の御計らひでせう。
油を商ふ主 私はきつと天狗か何かが、憑いてゐると思ふのだがね。
栗胡桃などを商ふ主 いや、私は狐だと思つてるのさ。
油を商ふ主 それでも天狗はどうかすると、仏に化けると云ふぢやないか?
栗胡桃などを商ふ主 何、仏に化けるものは、天狗ばかりに限つた事ぢやない。狐もやつぱり化けるさうだ。
手に足駄を穿ける乞食 どれ、この暇に頸の袋へ、栗でも一ぱい盗んで行かうか。
若き尼 あれあれ、あの金鼓の音に驚いたのか、鶏が皆屋根へ上りました。
五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
釣をする下衆 これは騒々しい法師が来たものだ。
その伴 どうだ、あれは? 跛の乞食が駈けて行くぜ。
牟子をしたる旅の女 私はちと足が痛うなつた。あの乞食の足でも借りたいものぢや。
皮子を負へる下人 もうこの橋を越えさへすれば、すぐに町でございます。
釣をする下衆 牟子の中が一目見てやりたい。
その伴 おや、側見をしてゐる内に、何時か餌をとられてしまつた。
五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
鴉 かあかあ。
田を植うる女 「時鳥よ。おれよ。かやつよ。おれ泣きてぞわれは田に立つ。」
その伴 御覧よ。可笑しい法師ぢやないか。
鴉 かあかあ。かあかあ。
五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
暫時人声なし。松風の音 こうこう。
五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
再び松風の音 こうこう。
五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
老いたる法師 御坊。御坊。
五位の入道 身共を御呼びとめなすつたかな?
老いたる法師 如何にも。御坊は何処へ御行きなさる?
五位の入道 西へ参る。
老いたる法師 西は海ぢや。
五位の入道 海でもとんと大事ござらぬ。身共は阿弥陀仏を見奉るまでは、何処までも西へ参る所存ぢや。
老いたる法師 これは面妖な事を承るものぢや。では御坊は阿弥陀仏が、今にもありありと目のあたりに、拝ませられると御思ひかな?
五位の入道 思はねば何も大声に、御仏の名なぞを呼びは致さぬ。身共の出家もその為でござるよ。
老いたる法師 それには何か仔細でもござるかな?
五位の入道 いや、別段仔細なぞはござらぬ。唯一昨日狩の帰りに、或講師の説法を聴聞したと御思ひなされい。その講師の申されるのを聞けば、どのやうな破戒の罪人でも、阿弥陀仏に知遇し奉れば、浄土に往かれると申す事ぢや。身共はその時体中の血が、一度に燃え立つたかと思ふ程、急に阿弥陀仏が恋しうなつた。……………
老いたる法師 それから御坊はどうなされたな?
五位の入道 身共は講師をとつて伏せた。
老いたる法師 何、とつて伏せられた?
五位の入道 それから刀を引き抜くと、講師の胸さきへつきつけながら、阿弥陀仏の在処を責め問うたよ。
老いたる法師 これは又滅相な尋ね方ぢや。さぞ講師は驚いたでござらう。
五位の入道 苦しさうに眼を吊り上げた儘、西、西と申された。――や、とかうするうちに、もう日暮ぢや。途中に暇を費してゐては、阿弥陀仏の御前も畏れ多い。では御免を蒙らうか。――阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
老いたる法師 いや、飛んだ物狂ひに出合うた。どれわしも帰るとしよう。
三度松風の音 こうこう。更に又浪の音 どぶりどぶり。
五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
浪の音 時に千鳥の声 ちりりりちりちり。
五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。――この海辺には舟も見えぬ。見えるのは唯浪ばかりぢや。阿弥陀仏の生まれる国は、あの浪の向ふにあるかも知れぬ。もし身共が鵜の鳥ならば、すぐに其処へ渡るのぢやが、……しかしあの講師も阿弥陀仏には、広大無辺の慈悲があると云うた。して見れば身共が大声に、御仏の名前を呼び続けたら、答位はなされぬ事もあるまい。されずば呼び死に、死ぬるまでぢや。幸ひ此処に松の枯木が、二股に枝を伸ばしてゐる。まづこの梢に登るとしようか。――阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
再び浪の音 どぶりどぶん。
老いたる法師 あの物狂ひに出合つてから、もう今日は七日目ぢや。何でも生身の阿弥陀仏に、御眼にかかるなぞと云うてゐたが。その後は何処へ行き居つたか、――おお、この枯木の梢の上に、たつた一人登つてゐるのは、紛れもない法師ぢや。御坊。御坊。……返事をせぬのも不思議はない。何時か息が絶えてゐるわ。餌袋も持たぬ所を見れば、可哀さうに餓死んだと見える。
三度波の音 どぶんどぶん。
老いたる法師 この儘梢に捨てて置いては、鴉の餌食にならうも知れぬ。何事も前世の因縁ぢや。どれわしが葬うてやらう。――や、これはどうぢや。この法師の屍骸の口には、まつ白な蓮華が開いてゐるぞ。さう云へば此処へ来た時から、異香も漂うてはゐた容子ぢや。では物狂ひと思うたのは、尊い上人でゐらせられたのか。それとも知らずに、御無礼を申したのは、反へす反へすもわしの落度ぢや。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
(大正十年三月)
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