現代日本文學大系 43 芥川龍之介集 |
筑摩書房 |
1968(昭和43)年8月25日 |
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷 |
一
高志の大蛇を退治した素戔嗚は、櫛名田姫を娶ると同時に、足名椎が治めてゐた部落の長となる事になつた。
足名椎は彼等夫婦の為に、出雲の須賀へ八広殿を建てた。宮は千木が天雲に隠れる程大きな建築であつた。
彼は新しい妻と共に、静な朝夕を送り始めた。風の声も浪の水沫も、或は夜空の星の光も今は再彼を誘つて、広漠とした太古の天地に、さまよはせる事は出来なくなつた。既に父とならうとしてゐた彼は、この宮の太い棟木の下に、――赤と白とに狩の図を描いた、彼の部屋の四壁の内に、高天原の国が与へなかつた炉辺の幸福を見出したのであつた。
彼等は一しよに食事をしたり、未来の計画を話し合つたりした。時々は宮のまはりにある、柏の林に歩みを運んで、その小さな花房の地に落ちたのを踏みながら、夢のやうな小鳥の啼く声に、耳を傾ける事もあつた。彼は妻に優しかつた。声にも、身ぶりにも、眼の中にも、昔のやうな荒々しさは、二度と影さえも現さなかつた。
しかし稀に夢の中では、暗黒に蠢く怪物や、見えない手の揮ふ剣の光が、もう一度彼を殺伐な争闘の心につれて行つた。が、何時も眼がさめると、彼はすぐ妻の事や部落の事を思ひ出す程、綺麗にその夢を忘れてゐた。
間もなく彼等は父母になつた。彼はその生れた男の子に、八島士奴美と云ふ名を与へた。八島士奴美は彼よりも、女親の櫛名田姫に似た、気立ての美しい男であつた。
月日は川のやうに流れて行つた。
その間に彼は何人かの妻を娶つて、更に多くの子の父になつた。それらの子は皆人となると、彼の命ずる儘に兵士を率ゐて、国々の部落を従へに行つた。
彼の名は子孫の殖えると共に、次第に遠くまで伝はつて行つた。国々の部落は彼のもとへ、続々と貢を奉りに来た。それらの貢を運ぶ舟は、絹や毛革や玉と共に、須賀の宮を仰ぎに来る国々の民をも乗せてゐた。
或日彼はさう云ふ民の中に、高天原の国から来た三人の若者を発見した。彼等は皆当年の彼のやうな、筋骨の逞しい男であつた。彼は彼等を宮に召して、手づから酒を飲ませてやつた。それは今まで何人も、この勇猛な部落の長から、受けたことのない待遇であつた。若者たちも始めの内は、彼の意嚮を量りかねて、多少の畏怖を抱いたらしかつた。しかし酒がまはり出すと、彼の所望する通り、甕の底を打ち鳴らして、高天原の国の歌を唱つた。
彼等が宮を下る時、彼は一振の剣を取つて、
「これはおれが高志の大蛇を斬つた時、その尾の中にあつた剣だ。これをお前たちに預けるから、お前たちの故郷の女君に渡してくれい。」と云ひつけた。
若者たちはその剣を捧げて、彼の前に跪きながら、死んでも彼の命令に背かないと云ふ誓ひを立てた。
彼はそれから独り海辺へ行つて、彼等を乗せた舟の帆が、だんだん荒い波の向うに、遠くなつて行くのを見送つた。帆は霧を破る日の光を受けて、丁度中空を行くやうに、たつた一つ閃いてゐた。
二
しかし死は素戔嗚夫婦をも赦さなかつた。
八島士奴美がおとなしい若者になつた時、櫛名田姫はふと病に罹つて、一月ばかりの後に命を殞した。何人か妻があつたとは云へ、彼が彼自身のやうに愛してゐたのは、やはり彼女一人だけであつた。だから彼は喪屋が出来ると、まだ美しい妻の死骸の前に、七日七晩坐つた儘、黙然と涙を流してゐた。
宮の中はその間、慟哭の声に溢れてゐた。殊に幼い須世理姫が、しつきりなく歎き悲しむ声には、宮の外を通るものさえ、涙を落さずにはゐられなかつた。彼女は――この八島士奴美のたつた一人の妹は、兄が母に似てゐる通り、情熱の烈しい父に似た、男まさりの娘であつた。
やがて櫛名田姫の亡き骸は、生前彼女が用ひてゐた、玉や鏡や衣服と共に、須賀の宮から遠くない、小山の腹に埋められた。が、素戔嗚はその上に、黄泉路の彼女を慰むべく、今まで妻に仕へてゐた十一人の女たちをも、埋め殺す事を忘れなかつた。女たちは皆、装ひを凝らして、いそいそと死に急いで行つた。するとそれを見た部落の老人たちは、いづれも眉をひそめながら、私に素戔嗚の暴挙を非難し合つた。
「十一人! 尊は部落の旧習に全然無頓着で御出でなさる。第一の妃が御なくなりなすつたのに、十一人しか黄泉の御供を御させ申さないと云ふ法があらうか? たつた皆で十一人!」
葬りが全く終つた後、素戔嗚は急に思ひ立つて、八島士奴美に世を譲つた。さうして彼自身は須世理姫と共に、遠い海の向うにある根堅洲国へ移り住んだ。
其処は彼が流浪中に、最も風土の美しいのを愛した、四面海の無人島であつた。彼はこの島の南の小山に、茅葺の宮を営ませて、安らかな余生を送る事にした。
彼は既に髪の毛が、麻のやうな色に変つてゐた。が、老年もまだ彼の力を奪ひ去る事が出来ない事は、時々彼の眼に去来する、精悍な光にも明かであつた。いや、彼の顔はどうかすると、須賀の宮にゐた時より、更に野蛮な精彩を加へる事もないではなかつた。彼は彼自身気づかなかつたが、この島に移り住んで以来、今まで彼の中に眠つてゐた野性が、何時か又眼をさまして来たのであつた。
彼は娘の須世理姫と共に、蜂や蛇を飼ひ馴らした。蜂は勿論蜜を取る為、蛇は征矢の鏃に塗るべき、劇烈な毒を得る為であつた。それから狩や漁の暇に、彼は彼の学んだ武芸や魔術を、一々須世理姫に教へ聞かせた。須世理姫はかう云ふ生活の中に、だんだん男にも負けないやうな、雄々しい女になつて行つた。しかし姿だけは依然として、櫛名田姫の面影を止めた、気高い美しさを失はなかつた。
宮のまはりにある椋の林は、何度となく芽を吹いて、何度となく又葉を落した。其度に彼は髯だらけの顔に、愈皺の数を加へ、須世理姫は始終微笑んだ瞳に、益涼しさを加へて行つた。
三
或日素戔嗚が宮の前の、椋の木の下に坐りながら、大きな牡鹿の皮を剥いでゐると、海へ水を浴びに行つた須世理姫が、見慣れない若者と一しよに帰つて来た。
「御父様、この方に唯今御目にかかりましたから、此処まで御伴して参りました。」
須世理姫はかう云つて、やつと身を起した素戔嗚に、遠い国の若者を引き合はせた。
若者は眉目の描いたやうな、肩幅の広い男であつた。それが赤や青の頸珠を飾つて、太い高麗剣を佩いてゐる容子は、殆ど年少時代そのものが目前に現れたやうに見えた。
素戔嗚は恭しい若者の会釈を受けながら、
「御前の名は何と云ふ?」と、無躾な問を抛りつけた。
「葦原醜男と申します。」
「どうしてこの島へやつて来た?」
「食物や水が欲しかつたものですから、わざわざ舟をつけたのです。」
若者は悪びれた顔もせずに、一々はつきり返事をした。
「さうか。ではあちらへ行つて、勝手に食事をするが好い。須世理姫、案内はお前に任せるから。」
二人が宮の中にはいつた時、素戔嗚は又椋の木かげに、器用に刀子を動かしながら、牡鹿の皮を剥ぎ始めた。が、彼の心は何時の間にか、妙な動揺を感じてゐた。それは丁度晴天の海に似た、今までの静な生活の空に、嵐を先触れる雲の影が、動かうとするやうな心もちであつた。
鹿の皮を剥ぎ終つた彼が、宮の中へ帰つたのは、もう薄暗い時分であつた。彼は広い階段を上ると、何時もの通り何気なく、大広間の戸口に垂れてゐる、白い帷を掲げて見た。すると須世理姫と葦原醜男とが、まるで塒を荒らされた、二羽の睦じい小鳥のやうに、倉皇と菅畳から身を起した。彼は苦い顔をしながら、のそのそ部屋の中へ歩を運んだが、やがて葦原醜男の顔へ、じろりと忌々しさうな視線をやると、
「お前は今夜此処へ泊つて、舟旅の疲れを休めて行くが好い。」と、半ば命令的な言葉をかけた。
葦原醜男は彼の言葉に、嬉しさうな会釈を返したが、それでもまだ何となく、間の悪げな気色は隠せなかつた。
「ではすぐにあちらへ行つて、遠慮なく横になつてくれい。須世理姫――」
素戔嗚は娘を振り返ると、突然嘲るやうな声を出した。
「この男を早速蜂の室へつれて行つてやるが好い。」
須世理姫は一瞬間、色を失つたやうであつた。
「早くしないか!」
父親は彼女がためらふのを見ると、荒熊のやうに唸り出した。
「はい、ではあなた、どうかこちらへ。」
葦原醜男はもう一度、叮嚀に素戔嗚へ礼をすると、須世理姫の後を追つて、いそいそと大広間を出て行つた。
四
大広間の外へ出ると、須世理姫は肩にかけた領巾を取つて、葦原醜男の手に渡しながら囁くやうにかう云つた。
「蜂の室へ御はひりになつたら、これを三遍御振りなさいまし。さうすると蜂が刺しませんから。」
葦原醜男は何の事だか、相手の言葉がのみこめなかつた。が、問ひ返す暇もなく、須世理姫は小さな扉を開いて、室の中へ彼を案内した。
室の中はもうまつ暗であつた。葦原醜男は其処へはひると、手さぐりに彼女を捉へようとした。が、手は僅に彼女の髪へ、指の先が触れたばかりであつた。さうしてその次の瞬間には、慌しく扉を閉ぢる音が聞えた。
彼は領巾をたまさぐりながら、茫然と室の中に佇んでゐた。すると眼が慣れたせゐか、だんだんあたりが思つたより、薄明く見えるやうになつた。
その薄明りに透して見ると、室の天井からは幾つとなく、大樽程の蜂の巣が下つてゐた。しかもその又巣のまはりには、彼の腰に下げた高麗剣より、更に一かさ大きい蜂が、何匹も悠々と這ひまはつてゐた。
彼は思はず身を飜して、扉の方へ飛んで行つた。が、いくら推しても引いても、扉は開きさうな気色さへなかつた。のみならずその時一匹の蜂は、斜に床の上へ舞ひ下ると、鈍い翅音を起しながら、次第に彼の方へ這ひ寄つて来た。
余りの事に度を失つた彼は、まだ蜂が足もとまで来ない内に、倉皇とそれを踏み殺さうとした。しかし蜂は其途端に、一層翅音を高くしながら、彼の頭上へ舞上つた。と同時に多くの蜂も、人のけはひに腹を立てたと見えて、まるで風を迎へた火矢のやうに、ばらばらと彼の上へ落ちかかつて来た。……
須世理姫は広間へ帰つて来ると、壁に差した松明へ火をともした。火の光は赤々と、菅畳の上に寝ころんだ素戔嗚の姿を照らし出した。
「確に蜂の室へ入れて来たらうな?」
素戔嗚は眼を娘の顔に注ぎながら、また忌々しさうな声を出した。
「私は御父様の御云ひつけに背いた事はございません。」
須世理姫は父親の眼を避けて、広間の隅へ席を占めた。
「さうか? では勿論これからも、おれの云ひつけは背くまいな?」
素戔嗚のかう云ふ言葉の中には、皮肉な調子が交つてゐた。須世理姫は頸珠を気にしながら、背くとも背かないとも答へなかつた。
「黙つてゐるのは背く気か?」
「いいえ。――御父様はどうしてそんな――」
「背かない気ならば、云ひ渡す事がある。おれはお前があの若者の妻になる事を許さないぞ。素戔嗚の娘は素戔嗚の目がねにかなつた夫を持たねばならぬ。好いか? これだけの事を忘れるな。」
夜が既に更けた後、素戔嗚は鼾をかいてゐたが、須世理姫は独り悄然と、広間の窓に倚りかかりながら、赤い月が音もなく海に沈むのを見守つてゐた。
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