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一夕話(いっせきわ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-12 7:28:48  点击:  切换到繁體中文


「君は我々が知らないあいだに、その中学時代の同窓なるものと、花を折り柳にじ、――」
莫迦ばかをいえ。僕があの女に会ったのは、大学病院へやって来た時に、若槻にもちょいと頼まれていたから、便宜を図ってやっただけなんだ。蓄膿症ちくのうしょうか何かの手術だったが、――」
 和田は老酒ラオチュをぐいとやってから、妙に考え深い目つきになった。
「しかしあの女は面白いやつだ。」
れたかね?」
 木村は静かにひやかした。
「それはあるいは惚れたかも知れない。あるいはまたちっとも惚れなかったかも知れない。が、そんな事よりも話したいのは、あの女と若槻との関係なんだ。――」
 和田はこう前置きをしてから、いつにない雄弁ゆうべんを振い出した。
「僕は藤井の話した通り、このあいだ偶然小えんに遇った。所が遇って話して見ると、小えんはもう二月ほど前に、若槻と別れたというじゃないか? なぜ別れたといて見ても、返事らしい返事は何もしない。ただ寂しそうに笑いながら、もともとわたしはあの人のように、風流人ふうりゅうじんじゃないんですというんだ。
「僕もその時は立入ってもかず、それなり別れてしまったんだが、つい昨日きのう、――昨日はひる過ぎは雨が降っていたろう。あの雨の最中さいちゅう若槻わかつきから、飯を食いに来ないかという手紙なんだ。ちょうど僕も暇だったし、早めに若槻の家へ行って見ると、先生は気のいた六畳の書斎に、相不変あいかわらず悠々と読書をしている。僕はこの通り野蛮人やばんじんだから、風流の何たるかは全然知らない。しかし若槻の書斎へはいると、芸術的とか何とかいうのは、こういう暮しだろうという気がするんだ。まずとこにはいつ行っても、古い懸物かけものが懸っている。花も始終絶やした事はない。書物も和書の本箱のほかに、洋書の書棚も並べてある。おまけに華奢きゃしゃな机の側には、三味線しゃみせんも時々は出してあるんだ。その上そこにいる若槻自身も、どこか当世の浮世絵うきよえじみた、通人つうじんらしいなりをしている。昨日きのうも妙な着物を着ているから、それは何だねといて見ると、占城チャンパ[#ルビの「チャンパ」は底本では「チャンバ」]という物だと答えるじゃないか? 僕の友だち多しといえども、占城チャンパなぞという着物を着ているものは、若槻を除いては一人もあるまい。――まずあの男の暮しぶりといえば、万事こういった調子なんだ。
「僕はそのぜんを前に、若槻と献酬けんしゅうを重ねながら、小えんとのいきさつを聞かされたんだ。小えんにはほかに男がある。それはまあ格別かくべつ驚かずともい。が、その相手は何かと思えば、浪花節語なにわぶしかたりのしたなんだそうだ。君たちもこんな話を聞いたら、小えんのわらわずにはいられないだろう。僕も実際その時には、苦笑くしょうさえ出来ないくらいだった。
「君たちは勿論知らないが、小えんは若槻に三年この方、随分尽して貰っている。若槻は小えんの母親ばかりか、妹の面倒も見てやっていた。そのまた小えん自身にも、読み書きといわず芸事げいごとといわず、何でも好きな事を仕込ませていた。小えんはおどりも名を取っている。長唄ながうた柳橋やなぎばしでは指折りだそうだ。そのほか発句ほっくも出来るというし、千蔭流ちかげりゅうとかの仮名かなも上手だという。それも皆若槻のおかげなんだ。そういう消息を知っている僕は、君たちさえ笑止しょうしに思う以上、あきれ返らざるを得ないじゃないか?
「若槻は僕にこういうんだ。何、あの女と別れるくらいは、別に何とも思ってはいません。が、わたしは出来る限り、あの女の教育に尽して来ました。どうか何事にも理解の届いた、趣味の広い女に仕立ててやりたい、――そういう希望を持っていたのです。それだけに今度はがっかりしました。何も男をこしらえるのなら、浪花節語りには限らないものを。あんなに芸事には身を入れていても、根性のいやしさは直らないかと思うと、実際苦々にがにがしい気がするのです。………
若槻わかつきはまたこうもいうんだ。あの女はこの半年はんとしばかり、多少ヒステリックにもなっていたのでしょう。一時はほとんど毎日のように、今日限り三味線を持たないとかいっては、子供のように泣いていました。それがまたなぜだとたずねて見ると、わたしはあの女を好いていない、遊芸を習わせるのもそのためだなぞと、妙な理窟をいい出すのです。そんな時はわたしが何といっても、耳にかける気色けしきさえありません。ただもうわたしは薄情だと、そればかり口惜くやしそうに繰返すのです。もっとも発作ほっささえすんでしまえば、いつも笑い話になるのですが、………
「若槻はまたこうもいうんだ。何でも相手の浪花節語りは、始末に終えない乱暴者だそうです。前に馴染なじみだった鳥屋の女中に、男か何か出来た時には、その女中と立ち廻りの喧嘩をした上、大怪我おおけがをさせたというじゃありませんか? このほかにもまだあの男には、無理心中むりしんじゅうをしかけた事だの、師匠ししょうの娘と駈落かけおちをした事だの、いろいろ悪いうわさも聞いています。そんな男に引懸ひっかかるというのは一体どういう量見りょうけんなのでしょう。………
「僕はえんの不しだらには、あきれ返らざるを得ないと云った。しかし若槻の話を聞いている内に、だんだん僕を動かして来たのは、小えんに対する同情なんだ。なるほど若槻は檀那だんなとしては、当世まれに見る通人かも知れない。が、あの女と別れるくらいは、何でもありませんといっているじゃないか? たといそれは辞令じれいにしても、猛烈な執着しゅうじゃくはないに違いない。猛烈な、――たとえばその浪花節語りは、女の薄情を憎む余り、大怪我をさせたという事だろう。僕は小えんの身になって見れば、上品でも冷淡な若槻よりも、下品でも猛烈な浪花節語りに、打ち込むのが自然だと考えるんだ。小えんは諸芸を仕込ませるのも、若槻に愛のない証拠だといった。僕はこの言葉の中にも、ヒステリイばかりを見ようとはしない。小えんはやはり若槻とのあいだに、ギャップのある事を知っていたんだ。
「しかし僕も小えんのために、浪花節語りと出来た事を祝福しようとは思っていない。幸福になるか不幸になるか、それはどちらともいわれないだろう。――が、もし不幸になるとすれば、のろわるべきものは男じゃない。小えんをそこに至らしめた、通人つうじん若槻青蓋わかつきせいがいだと思う。若槻は――いや、当世の通人はいずれも個人として考えれば、愛すべき人間に相違あるまい。彼等は芭蕉ばしょうを理解している。レオ・トルストイを理解している。池大雅いけのたいがを理解している。武者小路実篤むしゃのこうじさねあつを理解している。カアル・マルクスを理解している。しかしそれが何になるんだ? 彼等は猛烈な恋愛を知らない。猛烈な創造の歓喜を知らない。猛烈な道徳的情熱を知らない。猛烈な、――およそこの地球を荘厳にすべき、猛烈な何物も知らずにいるんだ。そこに彼等の致命傷ちめいしょうもあれば、彼等の害毒もひそんでいると思う。害毒の一つは能動的に、他人をも通人に変らせてしまう。害毒の二つは反動的に、一層いっそう他人を俗にする事だ。小えんの如きはその例じゃないか? 昔からのどかわいているものは、泥水どろみずでも飲むときまっている。小えんも若槻に囲われていなければ、浪花節語りとは出来なかったかも知れない。
「もしまた幸福になるとすれば、――いや、あるいは若槻の代りに、浪花節語りを得た事だけでも、幸福はたしかに幸福だろう。さっき藤井がいったじゃないか? 我々は皆同じように、実生活の木馬に乗せられているから、時たま『幸福』にめぐり遇っても、つかまえない内にすれ違ってしまう。もし『幸福』を掴まえる気ならば、一思ひとおもいに木馬を飛び下りるがい。――いわば小えんも一思いに、実生活の木馬を飛び下りたんだ。この猛烈な歓喜や苦痛は、若槻如き通人の知る所じゃない。僕は人生の価値を思うと、百の若槻にはつばを吐いても、一の小えんを尊びたいんだ。
「君たちはそう思わないか?」
 和田は酔眼すいがんを輝かせながら、声のない一座を見まわした。が、藤井はいつのまにか、円卓テエブルに首を垂らしたなり、気楽そうにぐっすりこんでいた。

(大正十一年六月)




 



底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月10日公開
2004年3月8日修正
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