作品データ
「赤い鳥」1921(大正10)年1月、2月 |
新字新仮名 |
この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫) |
蜘蛛の糸・杜子春 |
新潮文庫、新潮社 |
1968(昭和43)年11月15日 |
1989(平成元)年5月30日46刷 |
2004(平成16)年6月5日67刷 |
一
支那の上海の或町です。昼でも薄暗い或家の二階に、人相の悪い印度人の婆さんが一人、商人らしい一人の亜米利加人と何か頻に話し合っていました。
「実は今度もお婆さんに、占いを頼みに来たのだがね、――」
亜米利加人はそう言いながら、新しい巻煙草へ火をつけました。
「占いですか? 占いは当分見ないことにしましたよ」
婆さんは嘲るように、じろりと相手の顔を見ました。
「この頃は折角見て上げても、御礼さえ碌にしない人が、多くなって来ましたからね」
「そりゃ勿論御礼をするよ」
亜米利加人は惜しげもなく、三百弗の小切手を一枚、婆さんの前へ投げてやりました。
「差当りこれだけ取って置くさ。もしお婆さんの占いが当れば、その時は別に御礼をするから、――」
婆さんは三百弗の小切手を見ると、急に愛想がよくなりました。
「こんなに沢山頂いては、反って御気の毒ですね。――そうして一体又あなたは、何を占ってくれろとおっしゃるんです?」
「私が見て貰いたいのは、――」
亜米利加人は煙草を啣えたなり、狡猾そうな微笑を浮べました。
「一体日米戦争はいつあるかということなんだ。それさえちゃんとわかっていれば、我々商人は忽ちの内に、大金儲けが出来るからね」
「じゃ明日いらっしゃい。それまでに占って置いて上げますから」
「そうか。じゃ間違いのないように、――」
印度人の婆さんは、得意そうに胸を反らせました。
「私の占いは五十年来、一度も外れたことはないのですよ。何しろ私のはアグニの神が、御自身御告げをなさるのですからね」
亜米利加人が帰ってしまうと、婆さんは次の間の戸口へ行って、
「恵蓮。恵蓮」と呼び立てました。
その声に応じて出て来たのは、美しい支那人の女の子です。が、何か苦労でもあるのか、この女の子の下ぶくれの頬は、まるで蝋のような色をしていました。
「何を愚図々々しているんだえ? ほんとうにお前位、ずうずうしい女はありゃしないよ。きっと又台所で居睡りか何かしていたんだろう?」
恵蓮はいくら叱られても、じっと俯向いたまま黙っていました。
「よくお聞きよ。今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立てるんだからね、そのつもりでいるんだよ」
女の子はまっ黒な婆さんの顔へ、悲しそうな眼を挙げました。
「今夜ですか?」
「今夜の十二時。好いかえ? 忘れちゃいけないよ」
印度人の婆さんは、脅すように指を挙げました。
「又お前がこの間のように、私に世話ばかり焼かせると、今度こそお前の命はないよ。お前なんぞは殺そうと思えば、雛っ仔の頸を絞めるより――」
こう言いかけた婆さんは、急に顔をしかめました。ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓際に行って、丁度明いていた硝子窓から、寂しい往来を眺めているのです。
「何を見ているんだえ?」
恵蓮は愈色を失って、もう一度婆さんの顔を見上げました。
「よし、よし、そう私を莫迦にするんなら、まだお前は痛い目に会い足りないんだろう」
婆さんは眼を怒らせながら、そこにあった箒をふり上げました。
丁度その途端です。誰か外へ来たと見えて、戸を叩く音が、突然荒々しく聞え始めました。
二
その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかった、年の若い一人の日本人があります。それがどう思ったのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは呆気にとられたように、ぼんやり立ちすくんでしまいました。
そこへ又通りかかったのは、年をとった支那人の人力車夫です。
「おい。おい。あの二階に誰が住んでいるか、お前は知っていないかね?」
日本人はその人力車夫へ、いきなりこう問いかけました。支那人は楫棒を握ったまま、高い二階を見上げましたが、「あすこですか? あすこには、何とかいう印度人の婆さんが住んでいます」と、気味悪そうに返事をすると、匆々行きそうにするのです。
「まあ、待ってくれ。そうしてその婆さんは、何を商売にしているんだ?」
「占い者です。が、この近所の噂じゃ、何でも魔法さえ使うそうです。まあ、命が大事だったら、あの婆さんの所なぞへは行かない方が好いようですよ」
支那人の車夫が行ってしまってから、日本人は腕を組んで、何か考えているようでしたが、やがて決心でもついたのか、さっさとその家の中へはいって行きました。すると突然聞えて来たのは、婆さんの罵る声に交った、支那人の女の子の泣き声です。日本人はその声を聞くが早いか、一股に二三段ずつ、薄暗い梯子を駈け上りました。そうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。
戸は直ぐに開きました。が、日本人が中へはいって見ると、そこには印度人の婆さんがたった一人立っているばかり、もう支那人の女の子は、次の間へでも隠れたのか、影も形も見当りません。
「何か御用ですか?」
婆さんはさも疑わしそうに、じろじろ相手の顔を見ました。
「お前さんは占い者だろう?」
日本人は腕を組んだまま、婆さんの顔を睨み返しました。
「そうです」
「じゃ私の用なぞは、聞かなくてもわかっているじゃないか? 私も一つお前さんの占いを見て貰いにやって来たんだ」
「何を見て上げるんですえ?」
婆さんは益疑わしそうに、日本人の容子を窺っていました。
「私の主人の御嬢さんが、去年の春行方知れずになった。それを一つ見て貰いたいんだが、――」
日本人は一句一句、力を入れて言うのです。
「私の主人は香港の日本領事だ。御嬢さんの名は妙子さんとおっしゃる。私は遠藤という書生だが――どうだね? その御嬢さんはどこにいらっしゃる」
遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると、一挺のピストルを引き出しました。
「この近所にいらっしゃりはしないか? 香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを攫ったのは、印度人らしいということだったが、――隠し立てをすると為にならんぞ」
しかし印度人の婆さんは、少しも怖がる気色が見えません。見えないどころか唇には、反って人を莫迦にしたような微笑さえ浮べているのです。
「お前さんは何を言うんだえ? 私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありゃしないよ」
「嘘をつけ。今その窓から外を見ていたのは、確に御嬢さんの妙子さんだ」
遠藤は片手にピストルを握ったまま、片手に次の間の戸口を指さしました。
「それでもまだ剛情を張るんなら、あすこにいる支那人をつれて来い」
「あれは私の貰い子だよ」
婆さんはやはり嘲るように、にやにや独り笑っているのです。
「貰い子か貰い子でないか、一目見りゃわかることだ。貴様がつれて来なければ、おれがあすこへ行って見る」
遠藤が次の間へ踏みこもうとすると、咄嗟に印度人の婆さんは、その戸口に立ち塞がりました。
「ここは私の家だよ。見ず知らずのお前さんなんぞに、奥へはいられてたまるものか」
「退け。退かないと射殺すぞ」
遠藤はピストルを挙げました。いや、挙げようとしたのです。が、その拍子に婆さんが、鴉の啼くような声を立てたかと思うと、まるで電気に打たれたように、ピストルは手から落ちてしまいました。これには勇み立った遠藤も、さすがに胆をひしがれたのでしょう、ちょいとの間は不思議そうに、あたりを見廻していましたが、忽ち又勇気をとり直すと、
「魔法使め」と罵りながら、虎のように婆さんへ飛びかかりました。
が、婆さんもさるものです。ひらりと身を躱すが早いか、そこにあった箒をとって、又掴みかかろうとする遠藤の顔へ、床の上の五味を掃きかけました。すると、その五味が皆火花になって、眼といわず、口といわず、ばらばらと遠藤の顔へ焼きつくのです。
遠藤はとうとうたまり兼ねて、火花の旋風に追われながら、転げるように外へ逃げ出しました。
三
その夜の十二時に近い時分、遠藤は独り婆さんの家の前にたたずみながら、二階の硝子窓に映る火影を口惜しそうに見つめていました。
「折角御嬢さんの在りかをつきとめながら、とり戻すことが出来ないのは残念だな。一そ警察へ訴えようか? いや、いや、支那の警察が手ぬるいことは、香港でもう懲り懲りしている。万一今度も逃げられたら、又探すのが一苦労だ。といってあの魔法使には、ピストルさえ役に立たないし、――」
遠藤がそんなことを考えていると、突然高い二階の窓から、ひらひら落ちて来た紙切れがあります。
「おや、紙切れが落ちて来たが、――もしや御嬢さんの手紙じゃないか?」
こう呟いた遠藤は、その紙切れを、拾い上げながらそっと隠した懐中電燈を出して、まん円な光に照らして見ました。すると果して紙切れの上には、妙子が書いたのに違いない、消えそうな鉛筆の跡があります。
「遠藤サン。コノ家ノオ婆サンハ、恐シイ魔法使デス。時々真夜中ニ私ノ体ヘ、『アグニ』トイウ印度ノ神ヲ乗リ移ラセマス。私ハソノ神ガ乗リ移ッテイル間中、死ンダヨウニナッテイルノデス。デスカラドンナ事ガ起ルカ知リマセンガ、何デモオ婆サンノ話デハ、『アグニ』ノ神ガ私ノ口ヲ借リテ、イロイロ予言ヲスルノダソウデス。今夜モ十二時ニハオ婆サンガ又『アグニ』ノ神ヲ乗リ移ラセマス。イツモダト私ハ知ラズ知ラズ、気ガ遠クナッテシマウノデスガ、今夜ハソウナラナイ内ニ、ワザト魔法ニカカッタ真似ヲシマス。ソウシテ私ヲオ父様ノ所ヘ返サナイト『アグニ』ノ神ガオ婆サンノ命ヲトルト言ッテヤリマス。オ婆サンハ何ヨリモ『アグニ』ノ神ガ怖イノデスカラ、ソレヲ聞ケバキット私ヲ返スダロウト思イマス。ドウカ明日ノ朝モウ一度、オ婆サンノ所ヘ来テ下サイ。コノ計略ノ外ニハオ婆サンノ手カラ、逃ゲ出スミチハアリマセン。サヨウナラ」
遠藤は手紙を読み終ると、懐中時計を出して見ました。時計は十二時五分前です。
「もうそろそろ時刻になるな、相手はあんな魔法使だし、御嬢さんはまだ子供だから、余程運が好くないと、――」
遠藤の言葉が終らない内に、もう魔法が始まるのでしょう。今まで明るかった二階の窓は、急にまっ暗になってしまいました。と同時に不思議な香の匂が、町の敷石にも滲みる程、どこからか静に漂って来ました。
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