そうこうするうちに、うらうらと晴れた温かい日が廻って来た。彼女は生き返ったような気がした。こうして、彼女は、秋が来るまで、その日その日を悲しく懶く送っていた。
再び寒さが訪れる頃になって、彼女は初めて自分の暗い行末をじいッと視つめるのだった。こののち自分は何をしてゆけばいいのだろう? そんなことは何ひとつ無いのである。こののち自分の身にはどんなことが起きるのであろう? 起きて来そうなことは無い。自分の心を元気づけてくれるような期待とか希望、そんなものが何か自分にもあるだろうか? そんなものは一つとして無かった。彼女が診てもらった医者は、子供は一生出来まいと云った。
前の年よりも一しお厳しい、一しお身に浸みる寒さが、絶えず彼女を悩ました。彼女は寒さに顫える手を燃えさかる焔にかざした。燃えあがっている火は顔を焦すほど熱かったが、氷のような風が、背中へはいって来て、それが膚と着物との間を分け入ってゆくような気がした。彼女のからだは、脳天から足の先まで、ぶるぶる顫えていた。透間風がそこらじゅうから吹き込んで来て、部屋という部屋のなかはそれで一ぱいになっているようである。敵のように陰険で、しつッこく、烈しい力をもった透間風である。彼女はどこへ行っても、それに出ッくわした。その透間風が、ある時は顔に、ある時は手に、ある時は頸に、その不実な、冷かな憎悪を絶えず吹きつけるのだった。
彼女はまたしても煖房のことを口にするようになった。けれども、良人はそれを自分の妻が月が欲しいと云っているぐらいに聞き流していた。そんな装置を片田舎のパルヴィールに据えつけることは、彼には、魔法の石を見つけだすぐらいに、不可能なことだと思われたのである。
ある日、良人は用事があってルーアンまで行ったので、帰りがけに、小さな脚炉をひとつ買って来た。彼はそれを「携帯用の煖房だ」などと云って笑っていた。良人はそれがあれば妻にこののち寒い思いは死ぬまでさせずに済むと思っていたのである。
十二月ももう末になってからのことである。こんなことでは到底生きてゆかれぬと思ったので、彼女はある晩、良人に恐る恐る頼んでみた。
「ねえ、あなた。どうでしょうね、春になるまでに二人で巴里へ行って、一週間か二週間、巴里で暮してみないこと?」
良人は肝をつぶして云った。
「巴里へ行く? そりゃアまたどうしてだい? 巴里へ何をしに行こうッてんだい? 駄目だよ、そんなことを云っちゃ――。飛んでもないことだよ。ここにこうしていりゃア、お前、好すぎるくらい好いじゃないか。お前ッて女は、時々、妙なことを思いつくんだねえ」
彼女は呟くような声で云った。
「そうでもすれば、すこしは気晴しになると思うんですの」
しかし良人には妻の意が汲みかねた。
「気晴しッて、それアまた何のことだい? 芝居かい、夜会かい。それとも、巴里へ行って美味いものを食べようッてのかい。だがねえ、お前はここへ来る時に、そういうような贅沢な真似が出来ないッてことは得心だったはずじゃないのかい」
良人のこの言葉とその調子には非難が含まれていることに気がついたので、彼女はそのまま口をつぐんでしまった。彼女は臆病で、内気な女だった。反抗心もなければ、強い意志も持っていなかった。
一月のこえを聞くと、骨をかむような寒さが再び襲って来た。やがて雪が降りだして、大地は真ッ白な雪に埋もれてしまった。ある夕がた、真ッ黒な鴉の群がうずを巻きながら、木立のまわりに、雲のように拡がってゆくのを眺めていると、彼女はわけもなく泣けて来るのだった。いくら泣くまいとしても、やッぱり泪がわいて来た――。
そこへ良人が這入って来た。妻が泣いているのを見ると、良人はびッくりして訊くのだった。
「一体どうしたッて云うんだい、え?」
そう云う良人は、ほんとうに幸福な人間だった。世の中にはさまざまな生活があり、さまざまな快楽があるなどと云うことは、夢にも考えてみたことはなく、現在の自分の生活、現在の自分の快楽に満足しきっている彼は、世にも幸福な人間だった。彼はこうした荒寥たる国に生れ、ここで育ったのである。彼にとっては、こうして自分の生れた家で暮していることが、心にも体にも、いちばん愉しいことだった。世の中の人間が変った出来事を望んだり、次から次へ新らしい快楽を求めたりする心持が、彼にはどうしても解らなかった。世間には、四季を通じて同じ場所にいることを、何か不自然なことのように思っている人間がある。どうしてそんなことを考えるのか、彼には全くそういう人間の気が知れなかった。春夏秋冬、この四つの季節は、土地を変えることによって、それぞれ新らしい変った悦びを人間に齎すものだと云うことが、彼にはどうしても呑み込めなかったらしい。
だから彼女には返事が出来なかったのである。なんにも云わずに、ただ泪を一生懸命に拭いた。なんと云えばいいのか、彼女には分らなかった。やっとの思いで、頻りに云い澱みながらこう云った。
「あたし――あたしねえ――何だか悲しいんですの――何だか、妙に気が重いんですの――」
しかし、そう云ってしまうと彼女は何だか怖ろしい気がしたので、周章ててこう附け加えた。
「それに――あたし、すこし寒いんですの」
寒いと聞くと、良人はぐッと来た。
「ああ、そうだったのか、――お前にゃ、いつまでたっても煖房のことが忘れられないんだね。だが、よく考えてみるがいい。お前はここへ来てから、いいかい、ただの一度だって風邪をひいたことが無いじゃないか」
* *
* *
* *
夜になった。彼女は自分の寐間へあがって行った。彼女のたのみで、夫婦の寐間は別々になっていたのである。彼女は床に就いた。寐床のなかに這入っていても、やッぱり寒くて寒くて堪らなかった。彼女は考えるのだった。
「あああ、いつまで経ってもこうなのか。いつまで経っても、死んでしまうまでこうなのか」
そして彼女は自分の良人のことを考えた。良人にはどうしてあんなことが云えるのだろう。なんぼなんでもあんまり酷い――。
「お前はここへ来てから、ただの一度だって風邪をひいたことが無いじゃないか」
そんなら、自分が寒くて寒くて死ぬほどの思いをしていることを良人に解ってもらうには、自分は病気になって、咳をしなければいけないのだろうか。そう思うと彼女は急に腹立たしい気になった。弱い内気な人間のはげしい憤りである。
自分は咳をしなければならないのだ。咳をすれば、良人は自分を可哀そうだと思ってくれるに違いない。そうか! そんなら咳をしてやろう。自分が咳をするのを聞いたら、なんぼなんでも、良人は医者を呼んで来ずにはいられまい。そうだ、見ているがいい、いまに思い知らしてやるから――。
彼女は臑も足も露わのまま起ちあがった。そして、自分のこうした思い付きが我ながら子供ッぽく思われて、彼女は思わず微笑んだ。
「あたしは煖房が欲しいのだ。どうあっても据えつけさせてやる。あたしは厭ッてほど咳をしてやろう。そうすれば、良人だって思い切って煖房を据えつける気になるだろう」
彼女はそこで裸も同然な姿のまま椅子のうえに腰をかけた。こうして彼女は時計が一時を打つのを待ち、更に二時が鳴るのを待った。寒かった。体はぶるぶる顫えた。けれども彼女は風邪を引かなかった。そこで彼女は意を決して最後の手段によることにした。
彼女はこッそり寐間をぬけ出ると、階段を降り、庭の戸を開けた。大地は雪に蔽われて、死んだように寂然している。彼女はいきなりその素足を氷のように冷たい、柔かな粉雪のなかへ一歩踏み込だ。と、傷のように痛く疼く冷感が、心臓のところまで上って来た。けれども、彼女はもう一方の足を前へぐいと踏み出した。こうして彼女は段々を静かに降りて行った。
「あの樅の木のところまで行こう」
こう自分で自分に云いながら、彼女は雪に埋もれている芝生をつッ切って行った。息を切り切り、小刻みに歩いてゆくのだったが、素足を雪のなかへ踏み入れるたびに、息がとまるかと思われた。
彼女は、自分の計画を最後までやり遂げたことを確めるつもりなのだろう、一番とッつきの樅の木に手を触れ、それから引ッ返して来た。彼女は二三度あわや雪のうえに倒れてしまうかかと思われた。体は凍り切ってしまって、もう自分の体のような気がしなかった。けれども、彼女はそのまま家へは這入らずに、しばしの間、この凍り切った粉雪のなかに坐っていた。そればかりではない。手に雪を掴むと、これでもかと云わぬばかりに、それを自分の胸に擦りつけるのだった。
それから彼女は部屋に帰って寐た。一時間ばかりたつと、喉のあたりがむずむずして来た。蟻がそのへんをぞろぞろ這っているような気持である。また、別な蟻の群が自分の手足のうえを這い
っているような気もした。しかし彼女はぐッすり睡った。
翌日になると、咳がしきりに出た。彼女は、もう床から起きることが出来なかった。肺炎になってしまったのである。彼女は譫言を云った。その譫言のなかでも、彼女はやッぱり煖房を欲しがった。医者はどうしても煖房を据えつける必要があると云った。良人のアンリイは承知したものの、厭な顔をしていた。
* *
* *
* *
病気ははかばかしく快方に向わなかった。深く侵された両の肺は、どうやら彼女の生命を脅かすようになって来た。
「このままここにこうしておいでになっちゃア、奥さんは寒までは持ちますまい」
医者はそう云った。で、彼女は南フランスへ転地することになった。カンヌへ来て、彼女は久しぶりで太陽をふり仰いだ。海を眺め、オレンヂの花の香りを胸一ぱい吸った。
やがて春が廻って来た。彼女はまた北国へ帰って行った。
けれども、今はもう彼女は自分の病気が癒ることが怖かった。ノルマンディーのながい冬が恐ろしかった。彼女は体の工合がすこし快くなって来ると、夜、部屋の窓をあけて、遠く地中海のあたたかな海辺にその想いを馳せるのだった。
こうして、彼女はいま、遠からずこの世を去ろうとしているのである。自分でもそれは承知していた。けれども彼女はそれを悲しいことだとは思わなかった。かえってそれを喜んでいた。
持って出たまままだ開いてみなかった新聞を展げると、こんな見出しが、ふと彼女の眼にとまった。
巴里に初雪降る
それを見ると、彼女は、水でも浴びせられたように、ぶるぶるッと身顫いをした。それからにッこり笑った。そして、遠くエストゥレルの
群峰が夕陽をあびて
薔薇色に染っているのを眺めていた。彼女はまた、自分の頭の上に大きく拡がっている、眼に泌みるような青い空と、
渺茫たる碧い碧い海原とをしばらく眺めていた。
やがて彼女はベンチから起ちあがると、ゆっくりゆっくり自分の家のほうへ帰って行った。時折り咳が出た。彼女はそのたびに立ち停った。余り
晩くまで戸外にいたので、ほんの少しではあったが、彼女は
悪感がした。
家へ帰ると、良人から手紙が来ていた。彼女は相かわらず微かな笑みをうかべながら、その封を切って、それを読みだした。
日ましに快いほうへ向ってくれればと、そればかりを念じている次第だ。お前も早くここへ帰って来たく思っていることだろうが、余り当地を恋しがらないで、くれぐれも養生をしてくれ。二三日前から当地はめッきり寒くなって、厚い氷が張るようになった。雪の降るのももう間近いことだろう。お前とちがってこの季節が好きな自分は、おおかたお前もそう思っていることだろうが、お前をあんなに苦しめた例の煖房には、まだ火を入れないようにしている――」
ここまで読んで来ると、彼女は自分があんなにまで欲しがっていた煖房を、とうとう据えつけてもらうことが出来たことを知って、しみじみと嬉しい気がして、そのまま
先を読むのを
止めてしまった。そして、手紙を持っている右の手は、静かに静かに膝の上へ垂れて行った。一方、彼女はその左の手を、胸をひき裂くかと思われる、頑強な咳を鎮めようとして、
口脣のところへ持ってゆくのだった。
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