私は久しい前から机の抽斗を掃除しようと思っていたのだ。私は三十年来、同じ机の中へ手紙も勘定書もごたごたに放り込んでいたからだ。抽斗の中が手のつけようもないほどとッ散らかっていると思うと私は時折り厭な気持になることもあった。だが私は、整頓するということを考えただけで、精神的にも肉体的にも疲労を感じてしまうので、私にはこの厭わしい仕事に手をつける勇気がなかったのである。
今夜、私は机の前に腰をかけて抽斗を開けた。書いたものをあらまし引裂いて棄ててしまおうとして、私はむかしの文書を選り分けにかかったのだった。
私は抽斗をあけると黄ろく色の変った紙片がうず高く積みあがっているのを見て、暫時は途方に暮れたが、やがてその中から一枚の紙片をとりあげた。
ああ、もしも諸君が生に執着があるならば、断じて机に手を触れたり、昔の手紙が入っているこの墓場に指も触れてはいけない! 万が一にも、たまたまその抽斗を開けるようなことでもあったら、中にはいっている手紙を鷲づかみにして、そこに書かれた文字が一つも目に入らぬように堅く眼を閉じることだ。忘れていた、しかも見覚えのある文字が諸君を一挙にして記憶の大洋に投げ込むことのないように――。そしていつかは焼かるべきこの紙片を火の中に放り込んでしまうことだ。その紙片がすべて灰になってしまったら、更にそれを目に見えぬように粉々にしてしまうことだ。――しからざる時は、諸君は取返しのつかぬことになる、私が一時間ばかり前からにッちもさッちも足悶きがとれなくなってしまったように――。
ああ、初めのうちに読み返した幾通かの手紙は私には何の興味もないものだった。それにその手紙は比較的新らしいもので、今でもちょいちょい会っている現に生きている人たちから来たものであった。また、そんな人間の存在は私の心をほとんど動かさないのである。が、ふと手にした一枚の封筒が私をはッとさせた。封筒の上には大きな文字で太く私の名が書かれてある。それを見ていると私の双の眼に泪が一ぱい涌いて来た。その手紙は私のいちばん親しかった青年時代の友から来たものだった。彼は私が大いに期待をかけていた親友だった。やさしい微笑を面に湛え[#「湛え」は底本では「堪え」]、私のほうに手をさし伸べている彼の姿があまりにまざまざと眼の前にあらわれたので、私は背中へ水でも浴びせられたようにぞうッとした。そうだ、死者はたしかに帰って来るものだ。現に私が彼の姿を見たのだからたしかである! 吾々の記憶というものは、この世界などよりも遥かに完全な世界なのだ。記憶は既に生存していないものに生命をあたえるのだ。
私の手はワナワナ顫えた、眼はくもってしまった。だが私は彼がその手紙の中で語っている一部始終を読み返した。私は歔欷いている自分の哀れな心の中に痛い傷痕をかんじて、我知らず手足を折られでもした者のように呻き声を放った。
私はそこで河をひとが溯るように、自分の歩んで来た一生をこうして逆に辿って行った。私は自分がその名さえ覚えていなかったほど久しい前から忘れてしまっていた人たちのことを思い出した。その人たちの面影だけが私の心の中に生きて来た。私は母から来た手紙の中に、むかし家で使っていた雇人や私たちの住んでいた家の形や、子供のあたまについてるような他愛もない小さな事を見出した。
そうだ、私は突然母の旧いおつくりを思い出したのだった。すると、母の俤は母親がその時時の流行を逐うて著ていた着物や、次から次へ変えた髪飾りに応じて変った顔をして泛んで来た。特にむかし流行った枝模様のついた絹の服を著た母の姿が私の脳裡をしきりに往ったり来たりした。と、私はある日母がその服を著て、「ロベエルや、よござんすか、体躯をまッすぐにしてないと猫背になってしまって、一生なおりませんよ」と、私に云っていたその言葉を思い出した。
また、別な抽斗をいきなり開けると、私は恋の思い出にばッたりぶつかった。舞踏靴、破れたハンカチーフ、靴下どめ、髪の毛、干からびた花、――そんなものが急に思い出された。すると私の生涯の懐かしい幾つかの小説が私をいつ果てるとも知れぬものの云いようのない憂愁の中に沈めてしまった。この小説中の女主人公たちは今でも生きていて、もう髪は真ッ白になっている。おお、金色の髪の毛が縮れている若々しい額、やさしく撫でる手、物云う眼、皷動する心臓、唇を約束する微笑、抱愛を約束する唇!――そして最初の接吻、思わず眼を閉じさせる、あのいつ終るとも見えぬながいながい接吻、あの接吻こそやがて女のすべてを我が物にする、限りない幸福に一切のものを忘れさしてしまうのだ。
こうした遠く過ぎ去った旧い愛の文を私は手に一ぱいつかみ、私はそれを愛撫した。そして、思い出に今は物狂おしくなった私の心の中に、私は棄てた時の女の姿を一人々々見たのである。と、私は地獄の話が書いてある物語で想像されるあらゆる苦痛より遥かに苦しい気がした。
最後に私の手には一通の手紙が残った。それは私の書いたもので、私が五十年前に習字の先生の言葉を書き取ったものだ。
その手紙にはこうあった、
ボクノ 大スキナ オ母アサマ
キョウ ボクハ 七ツニナリマシタ 七ツトイウト モウ イイ子ニナラナクテハイケナイ年デス ボクハ コノ年ヲ ボクヲ生ンデ下サッタ オ母アサマニ オ礼ヲ云ウタメニ ツカイマス
オ母アサマガダレヨリモスキナ
オ母アサマノ子
ロベエル
手紙はこれだけだった。私はこれでもう河の源まで溯ってしまったのだ。私は突然自分の
残生のほうを見ようとして振返ってみた。私は醜い、淋しい老年と、間近に迫っている老衰とを見た。そして、すべてはそれで終りなのだ、それで何もかもが終りなのだ! しかも私の身のまわりには誰ひとりいない!
私の拳銃はそこに、テーブルの上にのっている、――私はその引金をおこした、――諸君は断じて旧い手紙を読んではいけない!
世間の人は大きな苦悶や悲歎を探し出そうとして、自殺者の生涯をいたずらに
穿鑿する。だが、多くの人が自殺をするのは、以上の手記にあるようなことに因るのであろう。
●表記について
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