隅々まで残る 職人の心意気
会津若松市街からものの10分もかからずに温泉街へ到着する。市街とは「地続き」の感が深い。会津布引山から流れ出る湯川のほとりに、大小20余軒の宿が点在する会津地方では指折りの歓楽温泉だった。かつては「奥羽三楽郷」に数えられ、江戸時代には会津藩の保養地としても栄えてきたといわれる。
現在は大型化したホテル旅館が多いせいか、湯町を貫通する道路沿いには商店らしき気配も薄い。日中のためか歩いている人影もない。モルタルがはげ落ちた壁に「百万弗ヌードショウ」の看板が突然現れて、昭和映画のワンシーンを思い起こさせ、ちょっとほろ苦い懐かしさを味わった。
そんな中で、赤瓦の屋根を幾重にも重ねる「向瀧」の佇(たたず)まいがこの温泉地の格式を偲(しの)ばせている。
創業は明治6年(1873年)、書院造の立派な建物は平成8年、登録有形文化財の指定を国から受けた。「きつね湯」「猿の湯」「家族湯」がそろい、鈴や瓢箪(ひょうたん)などを紋模様にデザインして彫刻したヒル石天井もめずらしい。ヒル石とはバーミキュライトのことで、多量に水分を含む力のあるところから、風呂場の湯気を吸収し、天井からの雫(しずく)を落とさないという優れた石材だ。昔の職人はこうした天然素材の性質をよく知り、上手に活用して建物を作ったから、50年、100年たっても使いきれるものが残ったのである。
欄間、書院障子の組子細工、袖板の彫刻、小さな処(ところ)にも職人の心意気が残されている。名もなき人々の、自信に満ちた手仕事の跡に、あらためて日本文化の見事さを痛感するのである。
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