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家康、安土へ
信長公、当春、東国へ御動座なされ、武田四郎勝頼・同太郎信勝、武田典厩、一類、歴/\討ち果たし、御本意を達せられ、駿河・遠江両国、家康公へ進めらる。其の御礼として、徳川家康公、并びに、穴山梅雪、今度上国候。一廉御馳走あるべきの由候て、先づ、皆道を作られ、所/\御泊/\に国持ち・郡持ち大名衆罷り出で候て、及ぶ程、結構仕り候て、御振舞仕り候へと、仰せ出だされ候ひしなり。【信長公記(桑田)】 長兄(信忠)ならびに信長が都を観せんために招いたその義弟である三河の王(徳川家康)その他占領したる諸国の領主等(穴山梅雪等)が当地に着いた。予ならびにイルマン等当カザにゐた者は、三河の王が都において噂された如く、カザに滞在することあらんかと心配したが、我等の主はこの苦労を与へ給はず、彼はカザの附近に宿泊し、二、三日を経て信長の来る前に堺及び奈良の町々を観んために行った。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
信長、家康接待の準備を命じる
十四日、辛未、長兵(長岡藤孝)早天安土へ下向、今度徳川、信長爲御礼安土登城云々、惟任日向守在庄申付云々、【兼見卿記(別本)】 十四日、辛未、未明長兵下向安土、明日十五日徳川至安土被罷上也、就其各安土へ祗候云々、徳川逗留安土之間、惟日在庄之儀自信長被仰付、此間用意馳走以外也、【兼見卿記(正本)】 一安土ヨリ仰書被下、春清持來、去十五(日)ニ盃臺・樽三荷・小折二合・畑茶[十斤]進上ノ處、臺無比類トテ上一人ヨリ下万人稱美、寺門ノ名譽御門跡ノ御高名也、過分ノ金銀唐物進上モ如此御悦喜御滿足ハ無之、一段々々ノ御仕介也ト、尤珍重々々、(家康接待のための道具を安土に届ける) 一寺門ノハ盃臺不入御意、張良ハ祝言ナルカ、クラマ天狗ニ此事ヲウタイ、ヲコレル平家ヲ西海ニ追下ト云事、信長ハ平家ノ故御氣ニ障ル歟ト推量了、 一家康并スルカノ穴山入道十五日ニ安土へ來云々、事ヲ盡クル翫用意、惣見寺ヲ座敷ニ用意、唐和ノ財ニテ粧ト云々、言慮不及事共也ト、充滿々々、いさよひの空こわ物ヽヽ、【多聞院日記(五月十八日条)】
一三河屋形家康安土へ御越付、自寺門御音信在之、彩色盃臺[アヤツリ張良]・小折[三合]。麩[一合六寸シヒ百]・桶[一合、繪書之金銀之上ニ]・積交[一合クリ、キンカン、カンシ]・大樽[五荷]・三百疋惟日、百疋宛掘久・矢善・針阿弥明智傳五、使良圓、慶春ヲソユル、十二日ヨリ遣了、十八日ニ歸了、無殘仕合由也、臺結講分ニ五人[人形居之]、一人[石公]、一人[張良]、一人[龍神]、二人ハ伴也.然ル處自上意御尋在之、人形多事不審也ト被仰出了、結講分多沙汰不可然、リンセツ也并石公上ヲ見ル事不謂也、龍神大口モ無理也ト被仰出之一々尤之事也、重而可有分別事也、其道々ノ事テハ其人ニ任テ置事常也、雖然令機遣可尋明事也、【多聞院日記(別會所記)】
五月廿九 八木駿河守ヲ使者ニテ、上樣(信長)へ御盃臺、御折十合。【宇野主水日記】
信長、家康を接待する
五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至りて御参着。御宿大宝坊然るべきの由、上意にて、御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、京都・堺にて珍物を調へ、生便敷結構にて、十五日より十七日まで、三日の御事なり。【信長公記(桑田)】 織田殿ヨリ、日向守召ニ依テ登城シケルニ、信長公忿(イカリ)給ヘル御気色ニテ宣ヒケルハ、今度大君入来ニ付、配饌(ハイセン)ノ儀云(ヒ)付シ処ニ、過分ニ山海ノ珍物ヲ集メ、或ハ箸木具迄モ金銀ヲ鏤ル条、以ノ外ノ奇怪ナリ。徳川殿ハ初(メ)兄弟ノ契約ニテ、幕下ニ属スト云ヘトモ、吾今三公ニ至リ、天下ヲ執権スル身ナレバ、総シテ旗(ハタ)下ノ輩、左程ニハ有間敷事也。然レバ、汝不料簡ニ非アラスヤ。左アレバ、箇程迄華美ヲ尽スニ及間敷事ゾカシ。重テ主君ニ饗応スル事アラバ、如何致スベキヤ。其段、一手無用意コソ僻事(ヒガコト)ナレ。大君ニ対シ、左様ノ入魂ハ万(ヨロ)ヅ無□(ヲボツカ)事ナリ。以来ノ為、打擲セヨト被仰ケレバ、御前ナル小々姓四、五人立テ、扇ニテ光秀ガ頭ヲゾ打ニケル。其中ニ森蘭丸モ座席ヲ立テ、扇ヲ取直シ、銕(クロガネ)ノ要ヲ以テ、健(シタタカ)ニ打ケレバ、頂上破レテ血流落ケルヲ、信長公御覧シテ、罷立候ヘト御意ニヨリ、則退出申ニケリ。次ノ間ニ縁者ナリケル長岡兵部太輔藤孝在合ケルガ、御広間ノ傍(カタハラ)へ光秀ヲ招テ被申ケルハ、叢蘭(サウラン)欲(レバ)茂(モセント)、秋風破之。王者欲(レバ)明(ナラント)、讒臣闇(クラマス)之ト云ヘリ。唯今森蘭丸ガ為体(テイタラク)ヲ見ルニ、内々人ノ語レルニ思(ヒ)合(セ)候キ。彼ハ既ニ織田殿長臣森三左衛門可成(ヨシナリ)ガ子成ナルノ故ニ、未令元服ト云トモ、齢二十二歳ナレバ、奏者ノ役ヲ勤メ、青山与三・湯浅甚助・矢部善七ナトガ上ニ列シ、諸事ヲ執行(トリオコナフ)身也。殊ニ先月二日、濃州岩村ノ城主ト成テ、五万石領知セリ。係ヲ、歳ニモ足(タラ)ヌ小々姓同前ノ形勢(アリサマ)ハ、兎角言語ニ絶シタル事ニ候。内々承リシハ、彼者ノ亡父森三左衛門尉ハ、西近江宇佐山ニテ討死ス。今貴方、其地ヲ領シ給ヘバ、光秀無(キ)之ナラバ、父ガ落命(ラクメイノ)地(ノ)旨申立テ、西近江ヲ官領セバヤト、心中ニ深ク思ケル由聞及候トゾ被申ケル。日向守ハ具(ツブサ)ニ是ヲ聞ケレトモ、何ノ挨拶モナク、涙ヲ拭ヒテ私宅ヘゾ帰ケル。斯テ同月十九日、東照大君ヲ饗応馳走儀、惟任日向守ハ召離サレ、織田上野介ニ被仰付ケリ。【明智軍記】
五□□(月十)五日 徳川、穴山安土へ爲御禮被罷上訖。十八日於安土惣見寺、幸若大夫久世舞まひ申候。其次ニ、丹波猿樂梅若大夫御能仕候。 幸若ハ一段舞御感にて金十枚當座ニ被下之。梅若大夫御能わろく候て、御機嫌ハあしく御座候つれども、これにも金十枚被下之。【宇野主水日記】
徳川上洛、一段信長公ノ御奔走ニテ、安土惣見寺ニテ、御能幸若舞などあり。【宇野主水日記】
五月十九日、安土御山惣見寺において、幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、次の日は、四座の内は珍しからず、丹波猿楽、梅若大夫に能をさせ、家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、見物させ申さるべき旨、上意にて、御桟敷の内、近衛殿・信長公・家康公・穴山梅雪・長安・長雲・友閑・夕庵。御芝居は御小姓衆・御馬廻・御年寄衆、家康公の御家臣衆ばかりなり。 (中略) 梅若大夫御能仕り候折節、御能不出来に見苦敷候て、梅若大夫を御折檻なされ、御腹立ち大形ならず、【信長公記(桑田)】
五月十九日 於安土惣見寺 参州之家康ニ御舞・御能見物させられ候、上様被成 御成、本堂ニ而御見物、城介様各御壹門ノ御衆、何モ被成 御出、舞能御見物、堺衆十人斗參候、始ニ而幸若八郎九郎兩三人、長龍露拂、本舞たいしよくわん、こいまひふしミ、ときわ、其芙已後、即、丹波梅若太夫御能仕候、 脇ノ能見もすそ、次ニめくらさたといふ能いたし候、其時、 上様御氣色あしく候而、直ニしからしられ候、太夫罷歸候へ之由被 仰出候 【宗及茶湯日記他會記】
五月廿日、惟住五郎左衛門、堀久太郎、長谷川竹、菅屋玖右衛門四人に、徳川家康公御振舞の御仕立仰せつけらる。【信長公記(桑田)】
廿一日、(中略)安土より鵜善六の折帋越候、家康去十五日ニ安土へ御越候、御山にて御ふる舞候、十八日ニも家康御せんヲハ、上樣御自身御すへ候由候、各御供衆ニも、御てつから、ふりもミこかし御引候由候、御かたひら二つつゝ被下候、一つハ女はう衆ミやけとて、くれなゐノすゝし之由候、【家忠日記】
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