その昔は辺境の地だった江戸の町を切り開いたのは室町時代の武将・太田道灌。それをさらに発展させ、日本の首都としての地位に押し上げたのが徳川家康でした。果たして、江戸の開祖としての座はどちらの手に?
現在は皇居となっている江戸城を築いたのが太田道灌(1432~1486)。完成したのは1457年で、道灌が25歳のときでした。高い崖の上に三重の濠(ほり)を巡らし、内部を子城、中城、外城と3つに区切って建築しました。 道灌の死後、朽ち果てたままになっていた江戸城を本拠とし、立派な城とすべく修築に着手したのが徳川家康(1542~1616)です。しかし、すべての城郭が完成したのは三代将軍・家光の時代である寛永15年(1638)でした。 家康が江戸に入ったときはさびれてしまっていたとはいえ、江戸城の基礎を作ったのは太田道灌。これがなければ家康はほかの地に城を建築していたかもしれません。
というわけでこの勝負、わずかに太田道灌の勝ち!
太田道灌は有能な武将として、各地の合戦で武勲を挙げていました。江戸城を築いた後、江戸には各地の商人が集まりだし、関東の商業の中心として発展しました。しかし、道灌の主君である扇谷上杉定正は、親戚筋の山之内上杉家が策略で流した「道灌が不義を企てている」という風評を信じてしまいます。道灌は、定正に粕谷の自邸へ招かれた折に謀殺されました。ときに道灌55歳。道灌は主君の猜疑心によって、志半ばにして倒れてしまったのです。 一方、主君の豊臣秀吉によって関東の地を与えられた徳川家康は、天正18年(1590)に江戸入りしました。前述したとおり、その頃の江戸城は朽ち果てていましたが、城を修築するよりも先に、城下町建設のほうを優先しました。運河や水道を整備し、湿地帯の開拓なども進めたため、江戸は都市としての機能が発達していきました。それが、後の江戸発展への基礎となっていったのです。
というわけで、江戸城の城主としては徳川家康の勝ち!
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太田道灌のほうが徳川家康よりも100年ほど先んじていたとはいうものの、やはり、その後240年も続く太平の世の基礎を江戸で築いた徳川家康のほうが“江戸開祖”の座にふさわしい人物だろう。というわけで、この対決は |
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