黒楽茶碗 すぐれた審美眼で、日用雑器の中から茶碗や水指などの茶道其を見つけだしましたが、 最も利休居士の美意識がうかがえるのは茶器の改革です。 利休居士独自で長次郎らの陶工を指導し、楽茶碗を焼かせました。
利休居士の好みは、やがて利休型といわれる端正で重厚な楽茶碗に発展していきます。 とくに「大黒」に代表される黒楽茶碗へ造形されていくのです。
また、茶室についても、その美意識はみごとな開花をみせるのです。国宝の京都 山崎の妙喜庵の茶室「待庵」がそれです。
二畳敷のこの茶室の中に、利休の世界のすべてがあるのです。
北野大茶会 利休居士の茶が完成に近づいた天正十五年十月、京都北野神社の境内で 大茶会が催されました。
秀吉の発案で、「貴賎によらず、貧富にかかわらず」と広く民衆に呼び掛け、 「釜一つ、つるべ一つ、のみもの一つでもよい、茶がなければ焦がしでも苦しくない、 みんなひっさげて来るべし」という、すこぶる開放的な茶会となりました。
そのせいか、当日参会した者は千人を越えたそうです。この茶会には秀吉好みの黄金の茶室と、 利休居士好みの草庵の茶室が出され、いうならば道具茶と侘び茶の共存した茶会でしたが、 この時が秀吉と利休居士の蜜月の時代だったといえます。
大徳寺山門 「人生七十...」 その後、利休居士が寄進した大徳寺の金毛閣に、利休居士の木像が置かれた事で秀吉の 怒りをかい、ついにに天正十九年、利休居士は死を命ぜられるのでした。 「人生七十 力囲希咄 吾這宝剣 祖仏共殺」という辞世の偈を残して、 劇的な死を遂げるのです。
利休居士の死後、秀吉は哀惜の情が胸の中につのるのでした。失ったものの 偉大さをしのび、一時の狂気がくやまれたのでした。
利休以降 さて、利休居士を失った千家の家族は、それぞれ各大名にお預けの身と なりましたが、やがてゆるされ、二代少庵、三代宗旦の親子で千家再興に とり組むことになりました。
再興はまず、現在表、裏両千家のある小川頭に、書院残月亭と茶室不審庵を 建てることに始まりました。
まもなく少庵は隠居し、家督は宗旦にゆずられましたが、三代宗旦は、大藩からの 招きにも応ぜず、一貫して孤高な佗ぴ茶に徹した人でした。
宗旦の子の代から、千家は三家に分かれます。まず、不審庵を三男江岑宗左に ゆずりました。現在これを表千家と称しています。
同じ地所内の小川頭に建てた茶室、寒雲亭、又隠、今日庵などを四男仙叟宗室に ゆずりました。現在これを裏千家と称しています。
二男の一翁宗守は早くから家を出ていましたが、京都武者小路に分家をして一家を たてましたので、これを武者小路千家と称しています。
今日庵 裏千家 明治の初め、裏千家十一代家元玄ゝ斎宗室は、イスやテーブルを使って点前をする 立礼式の作法を考案し、新しい時代の作法を切り開きました。 今日、この作法は他の家元でも取り入れられ、重要な作法の一つとして教え継がれています。
またさらに、十三代の圓能斎宗室は茶道の幅を広げ、学校に茶儀科を設けて 学校茶道の第一歩を踏み出し、婦人の生活に茶をとけこませることに力をいれました。
続く十四代の淡々斎宗室は、裏千家茶道の全国支部づくりをなしとげ、ここに 裏千家の全国組織が完成しました。
またあわせて、海外普及と文化交流にも目を向け、それを受け継いだ十五代家元 鵬雲斎宗室宗匠は、世界各国の主な所に裏千家茶道の支部と公式の出張所を設立し、 多くの茶室を文化交流、親善のために寄付したのです。
こうして裏千家茶道は、国際的な茶道として大きく飛躍しました。
現在、世界中から多くの人たちが裏千家で茶道を学んでいます。
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